それでは、美濃部達吉と高砂市について紹介しましょう。
とはいうものの、このテーマついてほとんど勉強をしていません。
そのため、そのほとんどを、吉田登さんの著『みなとまち高砂の偉人たち』(友月書房)からお借りします。
美濃部家のルーツ
高砂の美濃部家の祖先は、但馬国村岡藩士だったのですが、寛政年間に高砂に移住してきたというのが有力な説です。
ルーツがはっきりわかるのは、高砂の美濃部家に養子として入った彼の祖父秀軒の時代からです。
《達吉の祖父秀軒と父秀芳のこと》
十輪寺に、美濃部達吉の祖父秀軒・祖母道、父秀芳そして母悦の墓碑が並んでいます。
秀軒の墓碑の裏側に墓碑銘(写真:向かって右)があり、ルーツを記しています。
・・・秀軒は、加東郡木梨村(現・加東市木梨)の大熊清兵衛直道の五男として、180享和(1802)に生まれました。
彼は、素封家大熊市右衛門有常の実弟であり、大熊家の分家として質屋を業としていました。
清兵衛は、文化三年(1606)秀軒が5歳のとき亡くなりました。小さい田舎での質屋はあまり裕福でなかったと思われます。
残された兄弟五人ら家族は将来の生活面のこともあり、秀軒が高砂美濃部家の養子嗣となり美濃部姓を継ぐことになったようです。
なお、大熊家と美濃部家とはそれまでどんな縁があったのかはわかりません。秀軒は壮年になり医を志し、蘭方医学を修めました。
天保十五年(1844)秀軒一家は高砂船頭町に居を構えていましたが、のちに北本町を経て、明治6年(1873)、材木町に移っています。
秀軒の妻は、高砂に住む医者であり、また儒学者でもあって高砂の郷学申義堂の教授を務めた三浦松石(1799~1853)の娘で、二男三女をもうけました。長男は太郎八、後の良平、次男は禎吉、後の秀芳です。
秀軒の妻は、安政三年(1856)二月二日に亡くなりました。享年41歳でした。秀軒が医を志したのは、義父の三浦松石の影響が大きかったと思われます。
とりわけ、秀軒は、木梨村の北隣の上三草村(現 加東市上三草)の蘭方医西山静斎(1813~1859)とは同郷でもあり、秀軒が一回り弱も年上ながら生涯深い親交がありました。
秀軒は高砂における唯一の蘭方医として種痘の普及に尽力しました。
秀軒は幕末、明治維新の動乱期を生きぬき、明治18年5月10日、孫の達吉が12歳のときに亡くなりました。享年84歳。(no3579)
*『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(友月書房)参照
*写真:秀軒の墓碑銘(5月8日撮影)
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