二つの遷都論(その2)・印南野遷都計画
都で権力を握った平氏でしたが、その政治は武士であるにもかかわらず貴族のやり方に似ており、寺社や兵士にからも不満が渦巻くようになりました。
そして、平氏は、追われるように、神戸の福原へ都をうつします。
が、福原は土地が狭く、とても不便で伊丹の昆陽池の地が便利であると、再び論議がおこりました。
ところが、この昆陽池遷都は清盛によりたちまちのうちにひっくり返されてしまいました。
その間の事情は、『玉葉(藤原兼実の日記)』に記されています。
印南野遷都は、清盛の思いつきか?
(治承知四年・1189)6月17日、天気晴れ。
・・・きのうの(遷都の件に関しあちこちに問い合わせをして情報収集していた)の返事が来ました。
すべてが、「播磨の国の印南野に遷都することになった」との結論です。
藤原邦綱(ふじわらくにつな)からは、「厳島内侍(いつくしまのないし)が神がかりし、昆陽野ではだめだ(印南野に遷都しろ)と託宣した」などの情報がとどきました。
6月17日、兼実のもとに各所から情報がもたらされました。「急に印南野遷都となった」というのです。
突如、厳島内侍が神がかりとなり、託宣が降りたのです。
それは、「昆陽野遷都を改め播磨国の印南野を都とせよ」という神意でした。
厳島神社の神威はすこぶる高く、神意に反することは困難でした。
さらに、厳島内侍は清盛の元愛人であり、この託宣は最高権力者清盛の意志そのものだったのです。
この印南野遷都構想に対しては、「清盛の思い付き」 などの否定的評価がされてきました。
しかし、「印南野は平清盛領大功田の中核であり、かなりの合理性を要する判断であつた」と言えます。(no4556)
*『印南野中世』・清盛の印南野遷都構想(金子哲論文)参照。
*写真:平清盛の福原雪見御所跡
◇きのう(3/1)の散歩(10.916歩)
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