ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(5):郷ノ口橋

2011-06-03 10:52:12 |  ・加古川市西志方

『風土記』には「村」という表記がたくさん見られます。

しかし、これらの村は、たんに人がムラがっている所を言ったもので、年貢を集めたりする行政単位ではありません。

古代においては、地方単位は郷里制を基礎にしていました。

715年に、これは(ごう、さと)と改められ、郷が地方政治の最下位の単位として残ることになりました。

そして、中世・郷の下には更に小さな単位である惣村が発生しています。

この一定のまとまりをもつ数村を合わせて「○○郷」と呼ぶことが一般的でした。

『志方郷』の名称については後に詳しく取り上げたいと思います。

機関誌『志方郷』は、「郷土・志方町」程度の意味に使われているので、ここでは深入りしないでおきます。

    郷ノ口橋

Westshikata_038 「志方を歩く(3)」で紹介した「出合橋」の隣(西)の善念川に架かる橋は「郷ノ口橋」です。

そして、小字に「郷の口」があります。

くりかえします。郷(ごう)は、江戸時代の行政単位ではありません。それ以前にさかのぼる名称です。

つまり、「郷の口」は、江戸以前から「志方」であったことを意味しています。

『志方郷(第2号)』で、磯野道子さんは「・・・この村(横大路)だけでなく志方郷に住んだ人々は、郷の口から、仕事や用事、または青雲の志を抱いて出て行き・・・」と書いておられます。

「郷の口」は、中世から「志方郷」への幹道の入口であったことは確かなようです。

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