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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(248):播磨町を歩く(129) 貧乏物語⑧・神尾春央来る②

2014-09-13 06:36:04 | 播磨町

(前号の続きです)
  播磨町史『阿閇の里』を読む
   享保の改革と神尾春央
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 神尾は二子村を見たあと西の方へ移りました。
 多可郡的場村では、次のような趣旨の強硬な演説"をしたといいます。
 「廻村の際、不埒がわかれば五千人でも七千人でも死罪や遠島・追放を申し付ける。・・・・法は人よりも重く、法の次は人。
 穀物よりは人が大切だが、その人より法の方が重いのだ」と。(森杉夫「都市接続農村の貢租」より。
 神尾らの政策はたちまち効果を表わし、享保年代(171636)は幕領の年貢米が140160万石程度であったが、巡見の年の延享元年(1744)180万石を突破し、以後約10年間は、それに近い水準をつづけています。
 単に幕領だけでなく、近くの大名私領にもその影響はあらわれています。
 当然のこととして、大規模な抵杭や一揆が各地に起ることになります。
  東から、かんの(神尾・雁)若狭が飛んで来て
 松浦静山の「甲子夜話(かっしやわ)」に出てくる落首に「東から、かんの(神尾・雁)若狭が飛んで来て、野をも、山をも堀江荒しろ(四郎)」とあります。
 神尾は、400石の身で抜てきされて役目柄500石になり、七年後の延享元年(1744)、巡見がすむと「その功績により」1000石取りになっています。
 吉宗の政治がよくわかる事例です。
 神尾春央の巡見の4年後、姫路藩においてついに農民の不満は爆発し、世に名高い「播磨全般一揆」がおこっています。
 *播磨町史『阿閇の里』参照
 *絵:吉宗

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