無量壽院
昔からの集落の道を歩いて、無量壽院へでかけました。暑い日でした。
無量壽院に到着。地元では「野添の大寺」と呼ばれていますが、まさに大寺です。
山門をくぐると、正面が本堂です。
この本堂は、第14世住職が願主となり、御影堂(みえいどう)として建立したものです。
工事は、棟梁の庄右衛門のもとで建築されました。棟梁の庄右衛門は、元禄14年(1701)に没しているので、それ以前に建てられたと考えられています。
江戸時代初期のものです。
明治30年(1897)頃に本尊(阿弥陀如来)安置のため一部を改修した以外は、元禄期の建築様式をよくとどめています。
岩光へ!・無量壽院の伝承
無量寿院は真言宗の播磨国の53ヶ寺を持つ中本山でした。
この寺に伝承が残されています。
それによれば、本尊・無量壽如来(阿陀如来)は、孝徳天皇の時代(七世紀中頃)に高麗の仏師が作ったと言われています。
この尊像は、播磨国明石郡西島村(現在の明石市大久保町西島)の六郎右衛門の家に伝わっていたものですが、その尊像が、岩光(いわみつ)へ行きたいとたびたび言ったので、六郎右衛門はついに尊像を背負って岩光村をめざしました。
その場所は、弘仁年中(810~824)に弘法大師が播磨国に立ち寄った所で、老松が茂り岩は苔むし、深林中に光を放つ岩があり、この霊験によって、大師はここに草庵を造りました。
これよりこの地を岩光といいました。岩光は後の野添です。
大師が草庵を作ってからも長い間荒れていました。が、後に覚鑁(かくばん)上人が、当地に来て、この不思議な話を聞き、康和5年(1103)に寺院を修造し、光明遍照山無量壽院といようになりました。
それ以後、寺は繁栄し、真言密教の道場となり、多くの修業行僧でにぎわったといいます。
このような伝承が寺に伝えられていますが、確証するものは残されていません。
*写真:無量壽院の山門と本堂
*『播磨町の歴史』(「播磨町の歴史」を編集する会)参照<o:p></o:p>
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