城下町で出発
先に述べたように、元和元年(1615)の武家諸法度で一国一城令に従って姫路藩の支城であった高砂城は壊されました。
その跡地に元々あった高砂神社が移されたのです。
池田の後、本多忠政を姫路城に配した幕府の意図は、西国・中国に配置された外様大名に対して政治的・軍事的に睨みを利かせる役割を果たさせることにありました。
姫路藩の保護のもとで
藩主・本多忠政は特に高砂の経営に援助をしています。
高砂城の跡地に戻した高砂神社に社領10石を寄進し、神殿・拝殴・舞殿・末社や周囲の築地を造営し、寛永二年(1625)には社領20石を追加して寄進したことでもそのことを知ることができます。
忠政は、高砂だけではなく、そのほか池田時代には冷遇されていた東本願寺派を保護して船場本徳寺を建立し、姫路給社、広峯神社、尾上神社、書写山円教寺など多くの名刹の復興や再建も行っています。
加古川舟運についても、その本格的な整備がこの第一次本多時代に行われています。
加古川流域の年貢米を大坂に輸送することを目的とする高瀬舟による舟運は文禄3年(1594)に大坂に拠点を置く豊臣政権によって開始されましたが、池田時代にも引き継がれました。
それにより、舟役米や高瀬舟運上の制度が整備されたのは本多忠政の時代でした。
これにより、高砂は商業の町として発展することになりました。
高砂神社には、本多忠政寄進の石燈籠が拝殿の前に二基残されています。(no2814)
*写真:本多忠政寄進の石燈籠(拝殿に向かって左の燈籠)
*『高砂市史(第二巻)・通史編近世』参照