三万の大軍が神吉城に攻め寄せた。
神吉城の攻撃側の総大将は、織田信長の長男・信忠で、これに明知光秀が部下として就いていた。
この時、秀吉であるが、『信長公記』には「但馬国へ相働き」とあり、『武功夜話』でも「秀吉は、但州の竹田に罷り在り候」とある。
秀吉は、神吉城の戦いには参戦していないようである。
神吉側は、城主・神吉頼正定(かんきよりさだ)以下約2000の兵であった。
『加古川市史(第二巻)』は、神吉城戦いのようすを次のように記している。
・・・神吉城には、中之丸・東之丸・西之丸の三つの郭(堀などで区切った城の区画)があり、中之丸には「天主」(城の中心部に設けられた大やぐら)があったのが注目される。
その城攻には築山を築き、城楼(物見やぐら)を組みあげ、大鉄砲で打ち砕き、人足を動員し、堀を埋めて攻め込むという物量作戦で、たぶん播磨の侍たちが経験したことのないものすごい城攻めであったことがわかる。
「頼定は、叔父の裏切りにより、神吉城が落城しという話もあるが、たぶん事実ではあるまい」と書く。
余談であるが、神吉城の戦いの4年後の天正10年(1582)6月、明智光秀は信長と信忠を本能寺で殺した。
*『加古川市史(第二巻)』参照
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