長束木綿(ながそくもめん)問屋の集荷の反数をみてみましょう。
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『加古川市史(第二巻)』は、天保11年(1840)~弘化3年(1846)の間の木綿問屋名と取引反数をまとめています。
◇坂田藤蔵家・姫路藩最大の長束木綿問屋◇
30軒の木綿問屋のうち坂田藤蔵家の6年間の取引反数は649,039反であり、二位以下を大きく引き離しています。
*詳細については<msnctyst w:st="on" address="『加古川市史" addresslist="28:『加古川市史;"></msnctyst>(第二巻)』p590をご覧ください。
坂田藤蔵家の取引量は、なんと全体の15.50%を占めていました。
まさに、坂田藤蔵家は、姫路藩の木綿の専売制度をささえた木綿問屋の大黒柱でした。
また、『加古川市史(第二巻)』は、二俣の木綿問屋、坂田藤蔵・坂田最一兵衛を紹介しているので、抜粋させていただきます。(一部文章を変えています)
「・・・最大の木綿(布)取扱量をみせる坂田藤蔵は、加古郡二俣村の有力問屋で、本家の最一兵衛家はここではわずか6,720反の取扱量にとどまっているが、分家である藤蔵のほうは長束問屋全体の15%以上の木綿を取り扱う最大の長束問屋に成長している。
坂田家は、長束仕法(販売の取り決め)の成立後、本家・分家ともに長束取締に就任しており、特に藤蔵家のほうは、大坂に出店を有し、幕末の文久三年(1863)には大坂積代銀の為替取扱方を藩から命じられている・・」
また、二俣町内会のHPに、次のような説明があります。一部をお借りします。
・・・・(坂田家は)戦前までは一般に「木綿屋さん」と呼ばれていた。
・・・また、坂田家は戦前までは二俣の大地主であったが、戦後GHQの農地改革で、地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ(事実上の没収)、小作人に売り渡されています。
そして、(藤蔵の)住居は二俣町内会が購入し、現在「二俣公会堂」(写真)として利用している。
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