ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

八幡町探訪:寛延一揆②・姫路藩ゆらぐ

2007-04-14 09:28:09 |  ・加古川市八幡町

4469f9c   寛延二年(1749)、西条組大庄屋・沼田平九郎宅(現:加古川市八幡町中西条)は一揆衆に打ち壊された。

  当時の状況を見ておきたい。

  1741年、奥州・白河藩(藩主・松平明距)は、姫路への転封が決まった。

  藩内の商人は、借金の返済を求めたが、借金を踏み倒しての姫路入りとなった。

  姫路への引越し費用を江戸の商人からの借金でまかなった。

  この時、商人と「借は姫路で支払う・・」という約束をした。

  姫路に入るや、年貢の引き上げ等により増収をしなければならなかった。

  その上、延享二年(1745)、家重が九代将軍を引き継ぎ、朝鮮国からお祝いのため。延享五年(1748)、477名が来朝し、途中一行は、室津(龍野市)に立ち寄った。

  幕府は、この接待を姫路藩に命じた。二万両を必要とした。

  借金まみれの姫路藩に商人は協力しなかった。

  更に、悪いことがかさなった。

  明距(あきのり)の姫路入部以来、6年に四度の暴風雨に見舞われ、凶作が続いた。

  48年も、大干ばつと台風で「稀有の凶作」となった。

  藩は、「農具を売ってでも年貢を納めよ」という強攻策にでた。

  沼田平九郎は藩に迎合した。

  年貢の減免を願い出た百姓は投獄された。

  百姓たちの不満が爆発した。

  滑(なめら・夢前町)でも、甚兵衛が中心となり大庄屋宅を打ち壊した。野谷新村と夢前(飾西郡)で燃え上がった一揆は、図のように瞬く間に姫路藩を震撼させる一揆にひろがった。

  藩から足軽部隊が出動した。亀山・船場(姫路市)本徳寺も百姓を説得した。

  やがて、一揆は終息。厳しい調べが大坂奉行所で行われた。

  寛延三年(1750)九月判決が言い渡された。

    野谷新村  伊左衛門  磔刑

    滑村     甚兵衛   磔刑     *その他、獄門三名

  伊左衛門は六月、大坂の牢で亡くなり、死体は塩漬けにされていた。

  藩は、塩漬けの伊左衛門を市川河原に引き出し磔にした。

*『兵庫県史(第四巻)』、『加古川市史(第三巻)』参照

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 八幡町探訪:寛延一揆①・沼田... | トップ | 八幡町探訪:太子岩付近 »

コメントを投稿