古代史の専門家は、行者塚出土の大量の埴輪(写真は一部)の研究等から行者塚は、5世紀初期の古墳であると結論づけている。
ここからは、素人(私)の無責任な想像を書いてみたい。
行者塚古墳の出土品の中には朝鮮半島南部からの遺物が多い。
これは中央(奈良地方)の豪族が、朝鮮南部から得た品物を、地方の豪族に与えたものとも考えられるが、それにしては行者塚古墳には多すぎるのである。
行者塚古墳の主は、中央の豪族にとって、それほど特別な豪族であったとも思えない。
5世紀の朝鮮半島の情勢は、百済・高句麗・新羅・加羅(から)、それに中国が複雑に絡み合っている。
つまり、お互いに相手の領土を狙っていた。
行者塚古墳から出土品から考えて、行者塚の主は加羅(任那)と関係が深い。
加羅は、これらの国の中でもっとも弱小の国(地方)である。
とするなら、当然加羅は、他国と同盟を結んだり援軍を求めたりしたのではないか。
西日本や北陸の海岸にある古墳にも、行者塚と同じく、加羅地方の遺物を多く持つ古墳がある。
これらの古墳の主は、加羅へ直接援軍を送ったのではないか。あるいは、食料援助とも考えられる。
そして、「その見返りとして、加羅からたくさんの宝物を得たのではないか」と考えるのである。
あくまで、素人の推測として読んで欲しい。
*写真(行者塚古墳出土・盾形埴輪)・『加古のながれ』(加古川市史編さん室)より
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます