申義堂は、藩と高砂の町の共同経営
申義堂は、どのような性格をもった教育施設だったのでしょう。
申義堂の運営の主体は どこにあったのかという問題です。
この点について、いままでは、姫路藩の教育施設としていました。
たしかに藩が一定の出資を行い、申義堂の維持運営費として25俵を給していす。
しかし、『兵庫県教育史』は、「(申義堂の)費用は藩費私費相半す」と書いています。
素朴に考えても藩からの25俵という額だけで、申義堂の運営と教授への俸給が賄えたのかという疑問があります。
また、ある書に「(申義堂は)郷学なり」とあり、また藩主の視察の宛名が「大年寄」であることなどは、そのことを検討する手がかりとなります。
「郷学」といういい方は、領主が藩士のための藩校以外に、領内の庶民子弟の教育のために開設したものという意味で使われています。
申義堂は、たんに領主側の意向によってできたのではなく、地域庶民の教育への志向があってはじめて実現されました。
高砂には、学問文化を志向する動きが一定の蓄積がありあました。
すくなくとも、寺子屋とは異なったより高度な学問所を望む動きがあり、それを受けて河合寸翁(姫路藩の家老)の建議が出されたとみるのが自然のようです。
また、藩主の高砂神社・申義堂の視察の宛名が「大年寄」になっていることは、申義堂の管理運営責任主体が大年寄であったことを示しています。
それは、町が申義堂の運営主体であったことを意味しています。
以上のことから申義堂の運営は、町が中心となり、藩の共同運営というのが実状に近かったようです。
申義堂は、藩と町の共同経営といいながら、その教育や運営・内容に対して藩の直接的な干渉はなかったようです。
『高砂市史(第二巻)・通史編近世』参照
*写真:申義堂に掲げられている額(河合寸翁筆)
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