申義堂と岸本家
江戸時代、高砂の町に岸本家とう豪商がありました。
『加古郡誌』に「申義堂の建物は高砂町岸本家の寄附によるもので、明治維新後廃藩の時に廃校すると共に、この建造物を岸本家に下付せられたといふ」という意味の記述があります。
たしかに、申義堂は、設立のはじめから岸本家と深い関係がありました。
明治4年(1871)の廃藩置県と共に廃校となりました。
廃校のさい、申義堂の建物が岸本家に下付されています。
木村重圭氏が「申義堂が創立されようとするとき、大年寄であり、また姫路藩六人衆の一人であった岸本家の当主(四代目岸本吉兵衛)により、土地と建物が提供されたものと思われる」と述べられている。
岸本家の私有にあらず
しかし、申義堂は岸本家という単独の家の意志により建設されたものではなく、町が町民子弟のための教育施設を作ろうとするとき、町の有力者が土地や建物を提供し、資金を出しあうということは充分にあったと思えます。
申義堂は、藩による閉設という名目とわずかな給米は与えられたが、実質は岸本家をはじめとする高砂の町民あるいは大年寄を中心とする有志によって設立運営が行われたのではないかと考えられます。
また、岸本家が土地建物を提供したとしても、申義堂の管理運営が岸本家によってなされたわけではなく、あくまで申義堂は町全体の教育施設であり、特定の家と結びついた私的な性格の施設ではなかったのです。
富と文化を社会的に還元し、町民の教育文化の向上が町の発展と調和をもたらし、それがひいては個々の家の発展と一体化するというあり方が申義堂を企画した町民有志の願う所であったのだと思われます。
したがって、申義堂は特定の家との直接的結びつきは避けて、大年寄という町の「公」を代表する者によって管理運営されたといえます。
*『高砂市史(第二巻) 通史編近世』参照
*写真:岸本家の茶室の庭(『近世地方商家の生活と文化』桑田優編著)より
その岸本吉兵衛の木綿屋としての石垣が姫路市内の九所御霊天神社に未だに残っていたのには驚きました。
江戸への直接木綿業者達の仲間たちが寄進した鳥居も残存していた。
また、申義堂講師後に仁寿山校教授に就いた菅野白華有味の墓石が姫路城を眺める城西にある景福寺の無縁墓地内にあるのを探し当てました。
また、河合寸翁が刻ませた観涛処の跋文に載っている石工が生石の石工と姫路市の御着支所敷地内移設している石橋の石工が播州印南石工名が時は七年(1828年と1835年)しか違っていないのに注目している。