これは、この社会が稲作を主な生業とする社会であるからである。
加古川市内には下図のように、大きく四つの弥生遺跡とその生活圏が確認されている。
いずれも、法華川・加古川・草谷川の沖積地ないし、低い段丘上に広がる。
お互いの遺跡は、ほぼ五キロの距離において分布している。これは大阪平野・奈良平野の状況とよく似ている。
昭和37年3月のはじめ、写真右の弥生土器が発見された。
場所は、平野部ではなく、八幡町下村の大日山の大歳神社の付近である。
地元の中学生と小学生が遊んでいて足を踏み込み、穴が開いて土中に土器があったことが発見のきっかけであった。
八幡小学校の当時の校長・黒崎基一、郷土史家・永江幾久二氏らの調査により、弥生後期の大型壷で、この壷は壷棺と使用されていたことがわかった。
なお、この壷からは何も発見されなかった。
現在、この壷は加古川総合文化センターの歴史博物館に展示されている。
*『加古川市史(第一巻)』、『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)参照
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