申義堂(しんぎどう)
達吉の父・秀芳は高砂町材木町に居住し、医者を業としていましたが、町民の子弟の教育の場としての申義堂の教授も務めました。
申義堂について、少し紹介しておきます。
申義堂(しんぎどう)は、さまざまな記録から文政十年(1827)にはすでにできていたようです。
「申義堂は、河合寸翁(かわいすんのう)による仁寿山黌(じんじゅざんこう)の開設(文政六年・1823)と関連させて、藩が設けた施設」としています。
たしかに藩が一定の出資を行い、維持運営費として25俵を給していた点からも、そのこととは否定できません。
ただ、素朴に考えて、25俵という額で申義堂の運営と教授への俸給が賄えたのかというと疑問があります。不可能です。
学問所は、たんに領主側の意向によってできるのではなく、地域庶民の教育への熱意があって初めて実現されたのでしょう。
高砂の町には、寺子屋とは異なったより高度な学問を望む施設を望みがまずあり、それを受けて、家老・河合寸翁の建議が出されたとみる方が自然です。
申義堂の運営は、藩からの25俵と合わせて町の有志が一定の費用をねん出し、藩は教育や運営には直接的な干渉はなかったようです。
岸本家が中心に
申義堂の設立運営に関わった町の有力者としてまず岸本家をあげることができます。
『加古郡誌』に「申義堂の建物は、高砂町岸本某の寄付にかかわるものにして、明治維新後廃藩に至りて、廃校するとともにこの建物を岸本某に下付せられしという」とあるように、岸本家が深くかかわっていました。
しかし、もちろん岸本家単独の意志によるものではなく、町衆が町民子弟の教育施設をつくろうとした時に、岸本家を中心に町の有力者が土地や建物を提供し、資金を出し合ったのでしょう。
従って、岸本家が建物・土地を提供したからといっても、申義堂の運営が岸本家の単独によりなされたということではないようです。(no3582)
*『高砂市史(第二巻)』参照
*写真:復元なった申義堂
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