ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

かこがわ100選(40):権現ダム

2013-04-02 00:15:02 |  ・加古川100選

権現ダム           

*平荘町上原

Taira_263_2平荘湖は完成したが、東播磨工業地帯の建設は急速に進み、平荘湖ダムからの送水だけでは工業用水の需要に応じることはできなかった。

兵庫県は、第二の貯水ダムを計画した。

「場所は、平荘町中山。総工費は90億円で、3つの山を3本の堰堤で結び、豊水期に加古川からポンプアップして貯水する。

通称、権現池(ごんげんいけ)を利用して貯水量1,000万トンの湖を作る」というものであった。

このダム建設により、中山地区を中心に平荘町磐(いわお)と志方町野尻地区の一部が水没することになる。

昭和45927日、兵庫県は、地元および加古川市の協力が不可欠と市に協力を要請した。

市会としては、当時設置されていた総合開発特別委員会に付託した。

委員会は、平荘湖ダム建設の用地買収の難航の苦い経験もあり熱心に動かなかった。

<難航する移転・保障問題>

517日の夜、ようやく、県・氏による第1回目の説明会が行われ、地元への協力要請をした。

525日、中山町内会は、次のような回答書を市長に提出した。

「中山地区町内会は、権現ダム建設に伴う水没計画には絶対反対である」とし、その理由として、「住みなれた土地を離れ、他に移住することは大きな苦痛である。

この土地での現在の生活に不自由なく、離れる必要を感じない。

なぜ、企業のために我々が犠牲を払わねばならないのか。

過去の例を見ると、他に移住した人々の実情は余りにも気の毒なケースが多く、我々としても大きな不安を感じる」などをあげている。

平荘湖ダムの場合と異なり、地元の反対や市会での当初の冷淡な対応もあり、ダム建設は難航し、ほとんど進展を見ないまま年を越した。

この段階でも加古川市は、むしろ県と地元との交渉を見守るという姿勢であった。

県の担当者は、地元の対策委員会の委員長と非公式の交渉をかさねた。

昭和4512月に至り、ついに了解点にたっした。

計画は、さらに遅れ、結局さまざまな問題が解決したのは、昭和531月であった。

権現ダムの建設は、最初の計画からじつに10年ぶりにようやく着工の運びとなった。

*『加古川市議会史(記述編)』参照

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