ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(10):学童疎開

2011-06-09 15:20:15 |  ・加古川市西志方

公会堂は新しくなっていたが・・・

Westshikata_013先日、妙正寺辺りをゆっくりと歩きまわりました。

公会堂を見つけました。私の知っている公会堂はもっと安っぽい建物です。

この場所が懐かしかったのは、昭和25年当時だったと思います。

ここで、映画の上映がときどきありました。

その日は、朝から浮き浮きしていました。

画面は、雨のように線がいっぱいの時代劇でした。

映画を見たあの公会堂で、戦時中疎開学童の生活があったんですね。

『志方郷・19』で知りました。

志方町への学童疎開については後日改めて報告します。

   

学童疎開(『志方郷・19号』より)

昭和19年の夏、都会の小学生を空襲から守るため、田舎への疎開する学童疎開が実施されました。

神戸の3年生と6年生の男子は、横大路の妙正寺に宿泊して西志方校で勉強しました。

疎開した学童は、妙正寺で生活して、その後公会堂へ移っています。

ある学童は、後に『学童疎開追想』に感想を寄せておられます。ここでは、公会堂での生活のヵ所のみを紹介します。

   

ある疎開学童の思い出

(妙正寺での生活の後)公会堂で寝泊まりすることになった。

教室の広さの天井の高い部屋だった。

19年夏から20年秋まで集団生活を送ったが、広い公会堂に、せんべいブトンでの生活は厳しく、手足はアカギレ、栄養失調によるハナタレ、皮膚病、加えて寝小便と9・10才の子どもにとってはつらかった。

疎開地に入った当初は、週に一回はすじ肉だったが肉もあった。

また、時には交代で民家へ招待されて、家庭の味を味わったりした。

しかし、戦況が悪くなるにつれ、食事は悪くなる一方で7・8月の頃の昼食はサカズキ一杯の大豆だけとなり、朝夕の食事もおかゆより薄い重湯なっていた。

イナゴをとってホウラクでいって食べるのが、唯一のおやつだった。

疎開中の楽しみは、やはり両親の面会であった。差し入れのおやつが楽しみだったが、親が帰れば、全部集めて全員のおやつになった。

・・・・学友の中には戦災で両親を亡くし縁者に迎えられて泣き泣き他所へ行く者もいた。

余りの辛さに夜中に脱走して、早朝宝殿駅で見つかる友もたびたび出た。・・・

*写真:現代の横大路公会堂

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 志方町を歩く(9):シオカ... | トップ | 志方町を歩く(11):弁天... »

コメントを投稿