ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(9):シオカキ井戸

2011-06-08 13:38:12 |  ・加古川市西志方

*磯野道子さんのご研究『志方郷・43号』の一部を書きなおしたものです。

  

 シオカキ井戸

Westshikata_005横大路を南北に走る道を南下すると峠の集落です。

家が数十軒ありますが、西山の集落の方へ行くと、西の端に大きな家が二軒あります。

 どちらもFの表札のモダンな家です。

その山側の家のそばの農道ぞいに「シオカキ井戸」(写真)はありあます。

普通の形の井戸です。

この井戸水がよく出ている時は釣瓶(つるべ)があって竹の竿がついていたそうです。

上から50センチ位もあったから杓で汲むことができたといいます。

この井戸は、どんな旱天が続いても枯れたことはなく、濁ることもありませんでした。

昔から霊泉と伝えられ、「シオカキ」とは「清める・潔斎」するという意味です。

江戸時代までは、字を知らない人が多かったので、赤チャンが生まれたら横大路の学者・大内氏に名前を付けてもらっていましたが、この井戸で潔斎して命名したといいます。

また、峠には豆腐屋さんが一軒ありました。

この水でつくっていたからとても美味しかったそうです。

また、この水は赤ちゃんの産湯(うぶゆ)や神仏に供える水として村中の人が守ってきました。

その大切な水がある日、突然出なくなりました。

戦後の南海地震であろうと思うが、地震の翌日から出なくなりました。

水脈がかわったのでしょう。

ここまでは、磯野さんの研究の焼き直しです。

   

南海地震

南海地震について、少し付け加えておきます。

突然の地震は、昭和211221日の早朝に発生しました。

 潮岬の沖合を震源とするマグニチュード8.2の巨大地震・南海地震です。

 この時期、日本は敗戦のため占領されており、マスコミの自由な報道は禁止されていました。

 そのためか、加古川地方での地震の被害・規模は詳しくは分かりません。

 専門家の意見では、この時の南海地震のエネルギィーは、すべて放出されていないとのことです。

最近、「さらに大きな次の南海地震が近い」と予想されています。

「想定外」であってほしくない。

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