ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(11):弁天さん(横大路)の祭

2011-06-10 18:10:40 |  ・加古川市西志方

『志方郷(23号)』に書かれている松本正巳さんの文章(一部)を読んでみます。

   

弁天さんの祭 

Westshikata_044「・・・弁天さんのまつりは、毎年7月22日と23日に行われました。

22日の宵宮には、どこの家でもご馳走を作り、嫁入りしている娘や他所へ出ている息子が帰り、にぎやかに祭をたのしみました。

弁天さんの境内では盛大に相撲大会が行われ、夜店がせまい境内から参道にまで、所せましと出ていました。

夜店の並んでいるところは、カーバイトの明かりをつけて明るく、参って来る人を祭の中へ引き入れてくれます。

店屋は氷屋、おもちゃ屋、冷やしラムネなど、子供の心をひきつけます。

相撲大会の世話は全部子どもです・・・」

この文章を読んだ時、懐かしさがいっぺんに吹き出しました。

松本さんが書かれた、この弁天さんの祭りに、幼稚園・小学校1年生だった私もいたんです。相撲大会は、いまでも鮮明に覚えています。

カーバイトのにおい一杯の相撲大会でした。

「ハッケヨイ ノコッタ ノコッタ・・・」の声が、はっきりと聞こえてきそうです。

私の知る弁天さんの祭は、昭和24・25年ごろですから、戦争の間もないころで、何かと影響が残っていたのでしょう。

松本さんが書かれている「どこの家でもご馳走をつくり、嫁入りしている娘や他所へでている息子が帰り、にぎやかに祭を楽しみました。・・・」と書かれていますが、祭の日のご馳走は覚えていません。なかったようです。

祭の日は、はやくから小銭を握って出かけました。

先日、この場所へ行ってみました。

今年の7月22日には、久しぶりで弁天さんの祭りに行ってみようと思います。

もちろん知る人は誰もいませんが・・・

   ・・・・・

また、「戦時中は出征兵士の家族が、お祭りして無事を祈りました・・」とも書かれています。

母がいたのは、弁天さんの近所でしたから、母はここへ父の無事を祈ったかもしれません。

でも、間もなく「戦死」の知らせがありました。粗末な箱に小さな石ころ一つだけが入っていたと聞きました。

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