梅谷七右衛門
播磨町を歩く(70)で魚介類供養塔(本荘)を以下のように紹介しました。
・・・この魚介類供養塔は、宝篋印塔で、「魚類成仏」の四文字が見られ「寛延三年に問屋中」とあり、寛延三年(1750)に当地の魚問屋が魚類成仏の供養として建立したことがわかります。
寛延三年といえば、その前年に播州一円は百姓一揆によって地方の豪農・富商が襲われた年です。
なお、「施主問屋梅谷」の文字も刻まれています。
「梅谷」とは、東本庄村の魚問屋の梅谷七右衛門(うめたにしちえもん)のことです。(播磨町を歩く・70より)
無量壽院の地蔵菩薩・宝篋印塔は梅谷七右衛門の寄進
無量壽院の本堂の東側に、宝篋印塔(写真)があります。
この塔は、東本荘村の問屋・梅谷七右衛門が寄進したもので、寛延2年(1794)に建立されました。
この年が寛延の大一揆が終息を迎えた年月と一致するため、「魚介類供養塔」と同様、両者の関連がいろいろと想像されています。
また、本堂の南東に、石造地蔵菩薩座像があります。
その石像も、問屋・梅谷七右衛門が、亡き妻の追善供養のために、寛保3年(1746)に建立したものです。
梅谷七右衛門は誰?
ここでも、梅谷七右衛門が登場しました。それにしても、梅谷七右衛門は、無量壽院を財政的にもささえていた有力者のようです。
この「梅谷」の名前が気になりました。と言うのは、以前、尾上・新野辺・安田(加古川市)を調べていた時にしばしば出会った名前です。
特に、寛延の大一揆では、新野辺村の梅谷氏は、庄屋で加古川市、播磨町の海岸部で一揆の襲来を受けた、ただ一軒の庄屋でした。
この尾上の梅谷氏とは関係があるのでしょうか。少し調べてみました。
本庄・梅谷氏は最初、平郡姓を名のっていました。
元禄の頃、加古郡口里村(加古川市尾上町)の梅谷氏から妻を迎え、そののち寛保年代に松平姫路播主に仕え、梅谷に改姓し、七右衛門を襲名しています。
梅谷の家紋も「二本引両」と平郡の「キキョウ」を組み合わせ「二本引にキキョウ」に改めています。
ですから、本荘「梅谷家」は、加古川の海岸部の有力者であり、学者を輩出した梅谷家と親戚関係に当たりました。
*写真:無量壽院本堂の東側にある梅谷七右衛門寄贈による宝篋印塔と地蔵菩薩
*『ふるさとの文化遺産(第三巻)』木戸正著参照
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