奈良時代では、古事記・日本書紀・風土記を取り上げねばなりません。
それらにはヤマトタケル(日本武尊)や彼のお父さん・お母さんが登場し、ヤマトタケルが加古川生まれであるというのですからなおさらです。
少しヤマトタケルについて書いておきたいのですが、その前にヤマトタケル論争について、余話として紹介しておきます。
ヤマトタケル考(1) ヤマトタケル論争
ことのおこりは、1980年12月、加古川駅前に加古川市のシンボルとして、日本武尊(ヤマトタケル)像の建立計画があることを「神戸新聞」(12月6日付)が報じたことでした。
加古川商工会議所が中心となり、この計画は進められていました。
翌、81年9月には商工会議所内に「日本武尊銅像建立奉賛会」がつくられました。
これに対して、教員組合・高等学校教員組合・「明るい加古川市をつくる市民の会」など8団体が中心になり「加古川駅前の日本武尊建立に反対する会」が結成されました。
反対の主な理由は、次のようでした。
① 戦前の教科書などで、日本武尊(ヤマトタケル)は戦争に駆り立てる役割を果した。
② 実在するかのような説明は、歴史を歪曲するものである。
③ 加古川駅前という公共の場所が、市民の合意もえずに建設されるのは民主的でない。
④ 駅前には、平和をイメージする明るいものを選ぶべきである。
12月4日、加古川勤労会館で開かれた反対集会には高名な歴史家・直木考次郎氏(故人)も駆けつけました。
この頃から、マスコミも「今、なぜヤマトタケルか!」と銅像建設反対の論調が目立つようになりました。
このような世論の高まりで、加古川市議会は「建立反対」「反対」の議案を継続審議としました。
その後も反対の声が高まり、銅像建立の声は少なくなりました。
追い討ちをかけるように、建設推進の中心になっておられたO氏が亡くなられ、やがてヤマトタケルが駅前に建立される計画は、立ち消えとなったのです。(no3855)
*絵:ヤマトタケル像(青木繁筆・東京国立博物館蔵)
◇きのう(1/26)の散歩(11.154歩)