(復習)東志方9ヵ村・高砂三ヵ村は、小田原藩領に
前号の復習です。宝永の富士山の大爆発(宝永4年・1707)の後、小田原藩の領土の過半を一時、幕府に返上にしてしまいました。
そして、小田原藩は、それに代わる土地を宝永5年に、復興がなるまでという期限つきでしたが、新たな領地を得ました。
その一つが、高砂の3ヵ村、東志方の9ヵ村でした。、
この状態が約40年、延享4年(1747)まで続きました。
東志方9ヶ村・高砂3ヵ村一ツ橋領(天領)に
その後、東志方・高砂のこれらの村は、新たな支配領に組み込まれることになります。
八代将軍・吉宗は、家康によって創設された御三家にならって御三卿(ごさんきょう)を創設しました。
東志方・高砂3ヵ村々は、小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から今度は御三卿の一ツ橋家の領地に組み込まれました。
これらの村々は、一ツ橋領の天領として江戸時代の終わりまで続いています。
◇一ツ橋公、陣屋跡◇
印南郡では、東志方の9ヶ村、そして加古郡の曽根村・今市村・中嶋村が一ツ橋領となりました。東志方の陣屋(役所)は、細工所に置かれました。
しかし、現在陣屋の遺構は、何も残っていませんし、詳細はわかりません。
ただ、細工所公会堂の庭に「細工所陣屋跡」の碑(写真)が、陣屋があったことを物語っているばかりです。