干鰯仲間(ほしかなかま)
工楽松右衛門を育てた高砂の町を散策していますが、高砂神社の玉垣に立ち寄ります。
高砂神社の数多くの玉垣に、干鰯(ほしか)仲(写真)と刻まれています。
「干鰯仲」の下に、欠落しているが仲間の「間」か、仲買仲間の「買仲間」の文字が入るのでしょう。
干鰯は、蝦夷地(北海道)から高砂に運ばれました。
ともかく、干鰯を商っていた商人が神社に献金をし、玉垣にその名を残しています。
干鰯は、字のごとく鰯の油を抜いて、干して小さく砕いた肥料です。干鰯は、肥料として優れており、油粕と共に広く使われました。
とりわけ、加古川・高砂地方(東郷)にとって、干鰯は重要な意味を持っていました。なぜなら、この地方は和泉・河内などとともに木綿の生産地でした。木綿づくりには肥料として多量の干鰯を必要としました。
そのため、干鰯屋は、大いに繁盛しました。
明和5年(1768)、高砂の干鰯問屋は、藩に願い出て運上金(税金)を納めることと引き換えに、高砂での干鰯販売の独占権を認められています。当時、高砂には干鰯問屋が9軒、仲間19軒もありました。
伊保崎村・荒井村から別府村・池田村一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿作付率は、畑では95.2%、全田畑面積に対しても40.1%をしめていました。
松右衛門は、こんな高砂町の風景のなかで少年期を過ごしたのです。(no4555)
*写真:高砂神社の玉垣(干鰯仲の次に「間」の字が彫られているのでしょう)
◇きのう(8/11)の散歩(13.316歩)