ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(259) 近世の加印地域 高砂篇(38)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(9)・干鰯

2018-08-12 10:24:31 | お爺さんが語る郷土の歴史

            干鰯仲間(ほしかなかま)

 工楽松右衛門を育てた高砂の町を散策していますが、高砂神社の玉垣に立ち寄ります。

 高砂神社の数多くの玉垣に、干鰯(ほしか)仲(写真)と刻まれています。

 「干鰯仲」の下に、欠落しているが仲間の「間」か、仲買仲間の「買仲間」の文字が入るのでしょう。

 干鰯は、蝦夷地(北海道)から高砂に運ばれました。

 ともかく、干鰯を商っていた商人が神社に献金をし、玉垣にその名を残しています。

 干鰯は、字のごとく鰯の油を抜いて、干して小さく砕いた肥料です。干鰯は、肥料として優れており、油粕と共に広く使われました。

 とりわけ、加古川・高砂地方(東郷)にとって、干鰯は重要な意味を持っていました。なぜなら、この地方は和泉・河内などとともに木綿の生産地でした。木綿づくりには肥料として多量の干鰯を必要としました。

 そのため、干鰯屋は、大いに繁盛しました。

 明和5年(1768)、高砂の干鰯問屋は、藩に願い出て運上金(税金)を納めることと引き換えに、高砂での干鰯販売の独占権を認められています。当時、高砂には干鰯問屋が9軒、仲間19軒もありました。

 伊保崎村・荒井村から別府村・池田村一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿作付率は、畑では95.2%、全田畑面積に対しても40.1%をしめていました。

 松右衛門は、こんな高砂町の風景のなかで少年期を過ごしたのです。(no4555)

 *写真:高砂神社の玉垣(干鰯仲の次に「間」の字が彫られているのでしょう)

  ◇きのう(8/11)の散歩(13.316歩)

コメント
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