加古川の舟運(1)・三つの理由
松右衛門は15才の頃、兵庫津(神戸にあった港街)に飛び出してしまった。これは彼の夢の続きであったのでしょう。
彼は漁師の子として生まれたが、高砂町が持つにぎわいがここちよかったに違いありません。
毎日見ている船の向こうの世界にあこがれていました。
彼が高砂に生まれていなかったとしたら、港・船乗りの汗、そして見たこともない外の世界にあこがれることもなく、工楽松右衛門という人物も誕生しなかったことでしょう。
松右衛門を誕生させた当時の高砂の町を散策しておきます。
高砂は、加古川の舟運(しゅううん)により、その広大な奥の地域と結びついていました。
・・・・加古川流域の年貢米・綿等は、高瀬舟(挿絵)で高砂に集められ、ここから大坂・江戸等へ送られました。
そして、帰りの舟で干鰯(ほしか)・その他の生活用品が流域の村々に運ばれたのです。
江戸時代、加古川流域は藩の枠を超えて加古川川筋という一つの経済圏が成立していました。
江戸時代、加古川舟運は盛んになりました。その集散地としての高砂はにぎわいました。
舟運の発達した理由は次のように考えられます。
三つの理由(舟運の開発)
① 信長の後、秀吉は天正11年(1583)に大坂に城を築き、大坂は政治・経済の中心となりました。そのため、西国の諸物資は、主に船舶により大坂に集まるようになり、加古川流域は大阪の経済圏に組こまれました。俄然、加古川の舟運が注目されるようになりました。
②そして、秀吉・池田氏という播磨一国を支配する大名の出現が考えられます。戦国時代のように群小の豪族の経済・技術・政治力では、加古川を通しての舟運開発は不可能でした。
③さらに、姫路藩による高砂港の整備があげられます。
加古川舟運が栄えた主な原因として、以上の三点が考えられます(no4553)
*挿絵:高瀬舟
◇きのう(8/9)の散歩〈11317歩〉