中道子山城跡の城主は、二人の城主説が考えられてています。
その一つは赤松氏則(範)築城説であり、もう一つは孝橋(新五郎)繁広(たかはし・しんごろう・しげひろ)説です。
孝橋新五郎繁広
赤松円心の三男は則祐です。そして、則祐の子・義則の長男は、嘉吉の乱で歴史の名を残している赤松満祐です。
嘉吉の乱および満祐の説明は「志方を歩く(60~64)」をご覧ください。ここでは説明を省きます。
嘉吉の乱後、満祐は守護所の坂本城(姫路市)で幕府軍を迎え撃ちましたが、府軍は坂本城を攻め、これを陥落させました。
満祐らは、少なくなった部下とともに揖保郡にある城山城(きやまじょう)で最後の一戦をするものの城山城は陥落、満祐の首は長刀(なぎなた)の先に貫かれ、京都で見聞されました。
ここに、赤松氏はいったん没落しました。
この満祐の最後の戦いに嫡子教康と弟の則繁が父と一緒に戦かいましたが、この二人は、城山城から逃げのびました。
教康は、伊勢に落ち、則繁も行方知れずとなりました。
が、ひょんなことで、則繁の行方は記録にとどめられることになりました。
その経過を『加古川市史(第二巻)』(p42)にみることにします。
「・・・則繁は(城山城の戦い後)室津から九州筑前にのがれ菊池某を頼り、さらに倭寇となって朝鮮沿岸を荒らしまわるなど猛威を振っていた。
このことは嘉吉三年(1443)六月に前将軍義教の死を弔うために来日した朝鮮の使節が、あわせて則繁の海賊行為の禁圧を幕府に訴えたことから判明した(『建内記』)。
その後、(中略)則繁は播磨に帰った。
(中略)これを知った幕府は、細川持常をして則繁を討たせた。
文安五年(1448)八月八日、則繁は隠れ家を囲まれ自殺し、その首は京都で鳩首された。・・・」(『加古川市史』より)
大河内満直改め孝橋新五郎繁広
則繁の後は、赤松一族の支流、大河内家(天神山系)の満直が継ぎ、善坊城(加西市)に拠って、名前も孝橋新五郎繁広と改めたといわれています。
この孝橋新五郎が、中道子城を築いたというのです。
中道子山と善坊は目と鼻の先です。
もう少し、説明を加えておきます。
天神山の三代城主・大河内満政は、ある事情で赤松氏の有力な血縁でありながら幕府軍とともに満祐を討伐する側に加わっています。
それが、幕府に認められて明石・加古・印南の播磨東三郡を与えられました。
その満政の子が満直です。
(赤松)満直つまり孝橋新五郎が、播磨三郡を抑える拠点として城山を築いたのも納得できます。
(孝橋繁広については、地元の櫛橋繁広が赤松満政の養子となり、後に善坊の養子になり「孝橋」を名乗ったという説もあります)
*写真:中道子山城の本丸跡