明治22年4月1日、蛸草新村・草谷村・下草谷村・野谷新村・印南新村・野寺村の6ヵ村が合併して母里村が誕生しました。
その時、江戸時代の新田をあらわす「新村」の名称はなくなり、それぞれ母里村蛸草・下草谷・野谷・印南となりました。
初代母里村村長として蛸草の岩本須三郎が選ばれました。
初代母里村村長・岩本須三郎
蛸草新村の庄屋の家に生まれた須三郎は、父を早く亡くし13才で庄屋の家をついでいます。
戸長(村長)になってからは、納税の問題・疎水事業にと、おいたてられ続けの毎日でした。
あるとき、郡長が気の毒そうに、「岩本さんもえらいときに村長になってでしたな」となぐさめたほどです。
(岩本)「ほんまですな・・・でも、苦労が大きいほど、喜びも大きますし・・・」
静かに答える須三郎の声には重みがありました。
まさに、須三郎の人生観でした。
しかし、「村長はんの言うことよう分かるが、借金だけがぎょうさんできた。
なんでこんな時に疎水つくるんや、もうちょっと時期待てへんのかいな・・・わしら、土地売るしかしょうない・・・」と不満をもらすものも多くいました。
(岩本)「土地売ったらあかん、もうじき水が来る。疎水の仕事や鉄道の仕事で日銭かせいで、もうちょっとがんばらなあかん」
こういうのが精一杯でした。
明治22年は、雨が多い年になりました。そして、秋には台風にも見舞われ、できたばかりの水路の一部も崩れました。
金が足りない。それだけではなかったのです。工事が始まると山陽鉄道の工事もはじまったため、人夫の賃金もあがりました。
でも地方の地元資産家は、出資には冷淡でした。
トンネルの工事の目途はついたのですが、工事費の目途がつきません。
21ヵ村の惣代は「淡河川疎水工事費拝借」を国に願い出でました。
工費拝借願いは認められなかったのですが、借り入れ金の返済の延納は認められました。
*小説『赤い土』(小野晴彦)参照