ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(492):蛸草を歩く(35)・岩本須三郎①

2011-05-09 08:19:02 |  ・稲美町加古

明治2241日、蛸草新村・草谷村・下草谷村・野谷新村・印南新村・野寺村の6ヵ村が合併して母里村が誕生しました。

その時、江戸時代の新田をあらわす「新村」の名称はなくなり、それぞれ母里村蛸草・下草谷・野谷・印南となりました。

初代母里村村長として蛸草の岩本須三郎が選ばれました。

   

初代母里村村長・岩本須三郎

92cd42a9 蛸草新村の庄屋の家に生まれた須三郎は、父を早く亡くし13才で庄屋の家をついでいます。

戸長(村長)になってからは、納税の問題・疎水事業にと、おいたてられ続けの毎日でした。

あるとき、郡長が気の毒そうに、「岩本さんもえらいときに村長になってでしたな」となぐさめたほどです。

(岩本)「ほんまですな・・・でも、苦労が大きいほど、喜びも大きますし・・・」

静かに答える須三郎の声には重みがありました。

まさに、須三郎の人生観でした。

しかし、「村長はんの言うことよう分かるが、借金だけがぎょうさんできた。

なんでこんな時に疎水つくるんや、もうちょっと時期待てへんのかいな・・・わしら、土地売るしかしょうない・・・」と不満をもらすものも多くいました。

(岩本)「土地売ったらあかん、もうじき水が来る。疎水の仕事や鉄道の仕事で日銭かせいで、もうちょっとがんばらなあかん」

こういうのが精一杯でした。

明治22年は、雨が多い年になりました。そして、秋には台風にも見舞われ、できたばかりの水路の一部も崩れました。

金が足りない。それだけではなかったのです。工事が始まると山陽鉄道の工事もはじまったため、人夫の賃金もあがりました。

でも地方の地元資産家は、出資には冷淡でした。

トンネルの工事の目途はついたのですが、工事費の目途がつきません。

21ヵ村の惣代は「淡河川疎水工事費拝借」を国に願い出でました。

工費拝借願いは認められなかったのですが、借り入れ金の返済の延納は認められました。

*小説『赤い土』(小野晴彦)参照

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 稲美町探訪(491):蛸草... | トップ | 稲美町探訪(493):蛸草... »

コメントを投稿