シリーズ「新野辺に仁寿山黌の賓館が」は、当初4回で終わる予定だった。
途中から河合寸翁の話に変わり、だらだらと続いている。
もう少しだけご辛抱願いたい。
固寧倉(こねいそう)
きょうの話題・固寧倉(写真上)も余話である。
5日(金)の午後、姫路市東山(ひがしやま)570-5へ出かけた。
東山の名前から幕末に姫路で盛んであった「東山焼き(とうざんやき)のこと」かと、推測されるだろうが、この場所に、固寧倉がある。
河合寸翁と関係するので取り上げておきたい。
江戸時代は、しばしば凶作に見舞われた。そのため、固寧倉は凶作の時、人々の生活を救うために米・麦・籾等を蔵に貯蔵しておく倉のことである。
姫路藩では、河合寸翁によって文化六年(1809)ごろから行われていた。
文政・天保のころまでに姫路藩では広く行われた。
倉は、切妻の平屋の土蔵造りで、入り口には、庇をつけ固寧倉の扁額(写真下)がかかげられていた。
加古川地方でも固寧倉は、たくさん造られていたが、西神吉町長慶に「固寧倉」の扁額が残るぐらいで、固寧倉そのものは残っていない。その実態もはっきりしない。
姫路市東山には固寧倉が修復され保存されている。
*写真上:固寧倉
写真下:固寧倉の扁額