ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(11)・固寧倉

2013-07-07 07:01:21 |  ・まち歩き

Koneiso_011シリーズ「新野辺に仁寿山黌の賓館が」は、当初4回で終わる予定だった。

途中から河合寸翁の話に変わり、だらだらと続いている。

もう少しだけご辛抱願いたい。

固寧倉(こねいそう)

きょうの話題・固寧倉(写真上)も余話である。

5日(金)の午後、姫路市東山(ひがしやま)5705へ出かけた。

東山の名前から幕末に姫路で盛んであった「東山焼き(とうざんやき)のこと」かと、推測されるだろうが、この場所に、固寧倉がある。

河合寸翁と関係するので取り上げておきたい。

Koneiso_009江戸時代は、しばしば凶作に見舞われた。そのため、固寧倉は凶作の時、人々の生活を救うために米・麦・籾等を蔵に貯蔵しておく倉のことである。

姫路藩では、河合寸翁によって文化六年(1809)ごろから行われていた。

文政・天保のころまでに姫路藩では広く行われた。

倉は、切妻の平屋の土蔵造りで、入り口には、庇をつけ固寧倉の扁額(写真下)がかかげられていた。

加古川地方でも固寧倉は、たくさん造られていたが、西神吉町長慶に「固寧倉」の扁額が残るぐらいで、固寧倉そのものは残っていない。その実態もはっきりしない。

姫路市東山には固寧倉が修復され保存されている。

*写真上:固寧倉

 写真下:固寧倉の扁額

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