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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

かこがわ、お城物語(3) 「雑賀川の戦い」再現

2015-10-18 07:54:27 | かこがわ、お城物語

   「雑賀川の戦い」再現 

 雑賀川の戦いを再現してみます。

 前号に続き地図をご覧ください。

 雑賀川(現在の和賀川)の右岸が雑賀衆、織田軍は左岸に布陣しました。

 突如、川筋に法螺貝が鳴り渡りました。

 (信長方の)先頭の騎馬武者(堀秀政)が大声をあげ、水しぶきを撒き散らして川へ突入しました。他の騎馬武者も続きました。                                

 なんとしたことか、雑賀川に乗り入れた騎馬武者が、雑賀陣地から矢弾もないのに、つんのめり、横倒しになったのです。

 先を競った騎馬武者の横転は、雑賀衆が仕組んだ川底の仕掛けにありました。

 織田軍団の騎馬武者拒んだのは、雑賀衆が川底に仕掛けた「梁掛け・杭出し」や「壷埋け」のためでした。

 仕掛けは、川底に前後左右、半間置きに杭をうち、梁木をかけわたした柵で、また「壷埋け」という、川底に壷や桶を埋めるという、簡単な防御のせいで、これが恐るべき凶器となりました。

 そんなこととは知らず、この壺に踏みこんだ騎馬は、前につんのめり、梁に引っ掛かって横転してしまったのです。

 この時とばかりに、銃弾は雷のごとく織田軍団を襲いました。                 

 信長勢は、雑賀軍の銃弾をうけ、たちまち大混乱となり、川面はどす黒い縞模の血が流れました。

 信長側の記録である『信長公記』も、信長軍の劣勢を認めているような書き方です。

 この雑賀川の戦いで、神吉城主・神吉頼定は、信長に味方し大活躍をしました。

 雑賀の戦法(とくにゲリラ戦)について学んだようです。

  <『信長公記』より>

  ・・・佐久間信義・羽柴秀吉・荒木村重・別所長治・堀秀政の軍勢。雑賀の地へ進撃し、諸所を焼き払った。敵(雑賀軍のこと)は・・・川岸に柵を立て防戦した。

 堀秀政の軍勢はどっと討ち入り、対岸まで押し寄せたが、岸が高く、馬でも上陸できない。敵は、ここを好機と鉄砲を持って攻撃したので、堀秀政の主だった武士数名が討たれ、堀勢は撤退した。(no2985)

 *地図:『戦国鉄砲・傭兵隊(鈴木眞哉著)』(平凡社新書)参照

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かこがわ、お城物語(2) 石山本願寺攻め・雑賀川の戦い

2015-10-17 08:36:33 | かこがわ、お城物語

       石山本願寺攻め

 信長は、天下統一の拠点として、石山本願寺の地を要求しました。

 信長は、この要求は簡単に片付くものと考えていたようですが、本願寺は、元亀元年(1570)から天正八年(1580)まで、雑賀軍(さいかぐん)と一向宗の信仰に支えられ、頑強に信長に抵抗し続けました。

 とちゅう、二回の講和・休戦はあったものの、信長は、ほぼ10年間、本願寺との戦いに足を取られたことになります。

 これでは、天下統一のプログラムがくるってしまったのも当然でした。

     雑賀川の戦い

 石山本願寺との戦いは泥沼状態に陥りました。

 そこで、信長は、天正5年(1577)2月、10万人の大軍を率いて、石山本願寺軍の中心勢力の雑賀衆の本拠地・雑賀郷を攻撃することを計画します。

 雑賀郷(さいかごう)の場所については、地図で確認ください。

 (青く塗った川が雑賀川、現在の和歌川で、赤丸が現在の和歌山市の中心地です)

 信長軍は、10万の勢力で雑賀郷を攻めたといいます。

 雑賀軍は、海辺や紀ノ川河口部の雑賀川(現:和歌川)にしかけた障害物、さらに鉄砲隊と海軍力で信長軍をさんざんに翻弄しました。

 2週間、持ちこたえ、そのまま和睦へと持ち込みました。

 雑賀川の戦いは、「毛利軍来る」の偽情報により、途中で信長は兵を引き、天正5年(1577)3月、雑賀川の戦いは終わりました。

 信長軍が撤退すると、本願寺方は、「仏の加護により信長軍に勝利した」と意気は大いに上がりました。

 この戦いに、東播磨から別所長治(三木城主)、別所重棟(三木城二番家老)、神吉頼定(神吉城主)、櫛橋伊定(志方城主)等が信長軍として参戦しました。

 この雑賀川の戦いは、鉄砲術にすぐれていたとはいえ雑賀軍は少数でした。

 当然、雑賀軍はゲリラ戦にならざるを得ません。

 後に、特に神吉城の戦いでは、雑賀川の戦法から多くを学んだようです。

 雑賀川の戦いは、「かこがわ、城物語」にとっても、重要な意味をもっていました。

 少し横道から、「かこがわ、城物語」を始めました。(no2984)

 *地図:『戦国鉄砲・傭兵隊(鈴木眞哉著)』(平凡社新書)参照

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かこがわ、お城物語(1) 戦国時代の加古川のお城の物語をしましょう 

2015-10-16 09:52:01 | かこがわ、お城物語

     「かこがわ、お城物語」をはじめます

 昨年、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」は大いに盛り上がりましたが、でも、少し不満が残りました。

 と言うのは、加古川地方で展開されたドラマがはっきりと分からないままに終わってしまったことです。

 三木城は東播磨であり、それを取り巻いた加古川地方の城をめぐる波乱、そして城主の苦悩の物語があったはずです。

 「やはり、歴史は姫路市が中心で、加古川地方では語るほどの大した内容はなかったのでは・・・」と思われた 方も多かったのではないかと想像します。

   『信長の跫(あしおと)』で神吉城の戦いを紹介

 最近『信長の跫(あしおと)』(かんき出版)は「加古川の地域史に関係しているみたい」と思い、なんとなく読み始めた本でした。

 おもしろいんです。

 作者は、神吉修身(かんきおさみ)さんです。

 お名前からもお分かりになるように、著者の神吉修身氏は、神吉城の戦いで落城した神吉一族の末裔の方のようです。

 一般的に、末裔の書かれた小説等は、「思い込み」が強くなりがちですが、『信長の跫(あしおと)』あまりそんな感じがしません。

 おもしろくて、3回ばかり読み返しました。

 最近は、お爺さん(私・72歳)は1回だけでは、ではよく内容が理解できません。

 読みながら、この本を参考にして、少しだけ私の考え(想像)もとりいれて、「かこがわ、お城物語を書いてみよう」と考えました。

 できるだけ歴史(史実)を頭の隅において加古川城の物語を紹介しようと思いますが、当然、物語になります。

 ですから、話の途中で「それはありえない」と言うような、お叱りをいただきながら、完成させていきたいと考えています。

 どんな「かこがわ、お城物語」になるか、私も楽しみです。

 それでは、始めることにしましょう。(no2983)

 *写真:『信長の跫(あしおと)・神吉修身』(かんき出版)の表紙

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