「雑賀川の戦い」再現
雑賀川の戦いを再現してみます。
前号に続き地図をご覧ください。
雑賀川(現在の和賀川)の右岸が雑賀衆、織田軍は左岸に布陣しました。
突如、川筋に法螺貝が鳴り渡りました。
(信長方の)先頭の騎馬武者(堀秀政)が大声をあげ、水しぶきを撒き散らして川へ突入しました。他の騎馬武者も続きました。
なんとしたことか、雑賀川に乗り入れた騎馬武者が、雑賀陣地から矢弾もないのに、つんのめり、横倒しになったのです。
先を競った騎馬武者の横転は、雑賀衆が仕組んだ川底の仕掛けにありました。
織田軍団の騎馬武者拒んだのは、雑賀衆が川底に仕掛けた「梁掛け・杭出し」や「壷埋け」のためでした。
仕掛けは、川底に前後左右、半間置きに杭をうち、梁木をかけわたした柵で、また「壷埋け」という、川底に壷や桶を埋めるという、簡単な防御のせいで、これが恐るべき凶器となりました。
そんなこととは知らず、この壺に踏みこんだ騎馬は、前につんのめり、梁に引っ掛かって横転してしまったのです。
この時とばかりに、銃弾は雷のごとく織田軍団を襲いました。
信長勢は、雑賀軍の銃弾をうけ、たちまち大混乱となり、川面はどす黒い縞模の血が流れました。
信長側の記録である『信長公記』も、信長軍の劣勢を認めているような書き方です。
この雑賀川の戦いで、神吉城主・神吉頼定は、信長に味方し大活躍をしました。
雑賀の戦法(とくにゲリラ戦)について学んだようです。
<『信長公記』より>
・・・佐久間信義・羽柴秀吉・荒木村重・別所長治・堀秀政の軍勢。雑賀の地へ進撃し、諸所を焼き払った。敵(雑賀軍のこと)は・・・川岸に柵を立て防戦した。
堀秀政の軍勢はどっと討ち入り、対岸まで押し寄せたが、岸が高く、馬でも上陸できない。敵は、ここを好機と鉄砲を持って攻撃したので、堀秀政の主だった武士数名が討たれ、堀勢は撤退した。(no2985)
*地図:『戦国鉄砲・傭兵隊(鈴木眞哉著)』(平凡社新書)参照