ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

入ヶ池物語(27) 国岡との水争い(昭和4年)①

2015-02-03 13:35:18 |  ・稲美町 入ヶ池物語

 話を、水争いにもどします。

      昭和まで続いた水争い

 明治時代以降も水利権は、それぞれの村落が引き継ぎました。

 昭和初期にいたるまで、周辺の村々との間で水争いが繰り返されました。

 とくに、大正末期から昭和初期にかけては旱魃が激しく、水争いが激化し、昭和3年から5年にかけて北山と国岡との間に激しい水争いがおきました。

 昭和4年(1929)の国岡と北山との「入が池」をめぐる水争いについては当時、国岡水利組合の委員長の福田次彦氏が「後日の参考に供する為」にと書き残された「陳情書」があります。

従って、以下の記事は、国岡側からの記録(陳情書)であることを念頭にお読みください。

    国岡との水争い(昭和4年)①

 北山の「入が池」では、秋分の日以降は樋門を閉じ、翌年の7月下旬に北山・国岡の水利委員立会いのうえ、南北の両分水所の土俵を合図により同時に切り放ち、分切石より上の水を双方へ5分5分に分けることが慣行となっていました。

田植えを目前に控えた(昭和4年)6月6日の夕方、北山は自分の村へ送水するために、入が池の樋門を抜き減水をはじめました。

 これに対して、国岡は「分水に先立って無断で樋門を開放するのは慣行違反である」と北山に抗議しました。

 そこで、国岡は、天満村の村長に交渉を依頼しました。

 北山は、6月11日午後7時ごろ、いったん樋門を閉じましたが、樋が開かれてから、およそ5昼夜の間に、入が池の貯水は7寸も減少し、国岡側は大量の水を奪われる結果になりました。

 さらに10日後、6月22日の朝、北山は再び大樋を抜き、北山の溜池への送水をはじめました。

 国岡は、再び天満村の村長に交渉を頼みました。

 天満村村長は、23日午前1時ごろ、真夜中にかかわらず北山水利委員長宅を訪問しました。

 その結果、北山側は、23日の夕方なって大樋を閉じました。

 この間に、入が池の水はおよそ1尺(約30センチ)も減少してしまいました。

 国岡では、「このような慣行無視の行動を今後しないように、北山に厳重注意をしてほしい」と加古川警察署長と天満村村長に願い出たところこれを了承され、北山の総代外5、6名を警察に呼び注意をしました。

 その後、国岡側は北山に例年通り7月の下旬に行われていた分水式を申し入れましたが、この年の分水式は行われませんでした。

 その年の国岡の用水は少なくなり、また、この夏は未曾有の大干ばつのため、村全体の稲はほとんど枯れ、大災害となりました。

 

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