*内容は一部「岩本須三郎①」と重なります。
三大難(旱魃・重税・綿作の衰え)の中の村長
岩本須三郎は、弘化二年(1845)蛸草新村の庄屋・岩本家に生まれました。
安政四年(1857)、父の死去により、13才で庄屋を継ぎました。
印南野東部6ヶ村(蛸草新村・野谷新村・印南新村・草谷村・下草谷村・野寺村)は、明治の地租改正によりべらぼうな地租(税金)となりました。
蛸草新村の祖額は、旧祖額の4.96倍となり、明治11年には明治9年にさかのぼっての納税となったため、蛸草新村の祖額は、なんと旧祖額の11.23倍となりました。
当時の印南東部6ヶ村(現:母里地区)は、水に恵まれず、その上に連年の旱魃により収穫はほとんどありませんでした。それも綿作が中心でした。
その綿は、開国により外国から安い、良質の綿が輸入され致命的な打撃を受けました。
それに、この重税です。村民は空前の悲劇に直面しました。
須三郎は村長として、陳情・請願・異議申し立ての交渉に専念しますが新政府を笠に着た税吏には理解するところとはなりませんでした。
解決のためには、夢物語であった山田川からの引水し、米の増収以外に方法がありませんでした。
印南地区の村々の幹部たちは村民を説得しつつ、明治11年、岩本須三郎・魚住寛治などが中心になり疏水掘割願を県に提出しました。
これが、疏水工事の始まりです。
母里村初代村長・岩本須三郎
明治8年頃から10余年に及ぶ納税苦、明治11年から疏水完成までの13年間、洪水復旧を兼ねると16年間の疏水の難工事期間となりました。
須三郎は、最も苦しい時代の蛸草新村の村長でした。
そして、母里地区の中心として、貧しい農民から罵声を受けながらも矢面に立ち働きました。
ある時は、竹槍のガードマンを要する異常さであったといいます。
しかし、須三郎の指導により6ヶ村は連携を保ち、この難局を切り開きることができました。
苦難の期間が長かったため各村の指導者の交代は余儀なくされましたが、須三郎だけは変ることなく地区の中止となり活動しました。
そのため、明治22年、町村制度実施により、母里村が誕生し須三郎は初代・母里村村長に選ばれ、明治27年まで勤めました。
*『稲美町史』参照