「終 戦」
かくして、8月15日正午、ラジオを通して、「大東亜戦争終結二関スル詔書」(敗戦)が、天皇の声によって伝えられた。
残念がる人、怒る人、内心ホッとする人、それらの感情がない交ぜになった気持ちを抱いた国民も多かった。
残念ながら、「終戦」に対する人々の気持ちが表現されたような史料は、加古川地域では目にすることは出来ない。
しかし、空襲に不安を抱いていた人々にとって、それは、不安な昼夜からの解放であり、日がたつにつれ、それが、実感されていったことは、想像に難くない。
45年6月、本土決戦のための組織として、文字通り国民総動員で結成された国民義勇隊も、敗戦とともに解散することとなった。
8月20日、加古川国民学校で、「大東亜戦争終結二関スル詔書奉読式」が行なわれた。<o:p></o:p>
その「訓話要項」では、アメリカの「新しい爆弾の使用」と、ソ連の宣戟に「戦闘の停止」の原因を帰すとともに、「大御心に帰一」する以外ないことを強調し、悔しさを惨ませながら、次のように語っている。
「私からも、また先生方からも度々皆さんに対して必ず勝抜くといふことを話して来ましたが、この様になって勝つことが出来なくなってしまったのであります。
天皇陛下の仰せのままに戦争をやめねばなりません(中略)今回の新しい爆弾にしても、もし、日本がこれを使うことが出来ていたら、こんな事にならなかつたかも知れません」
こうして、1937年(昭和12)7月の日中全面戦浄の勃発数えても8年に及ぶ戦争は、ここに終わった。
加古川地域の人々も、これから一体どうなるのだろうという大きな不安を抱きながら、占領軍の進駐を待つこととなる。戦争で、空襲で、家族を、家を、あるいは職を失った人々の不安は、さらに深かったであろう。
とりわけ加古川町の「昭和20年事務報告書」によれば、1820人にも及んだ他市町村よりの「転入罹災者」(3月13日現在)は、どのような気持ちで新たな時代を迎えたのであろうか。
焼跡・闇市、食糧難の戦後、そして同時に混沌としつつも活気ある戦後は、スタートを切った。
*『加古川市史(第三巻)』参照
*写真:戦没者碑、(大野・常楽寺)<o:p></o:p>
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