親子コンビで活躍
源次郎がコロコンキャリヤー開発に没頭しているころ、典雄も、大庫機械製作所の支配人を勤め、次代を背負う経営者としての責任、自覚を培かった。
当時すでに欧米諸国では、運搬機器はあらゆる工場に利用されていた。
「これら大庫機械製作所の屋台骨となる新製品は、これをおいてほかにない」そう決意して、源次郎とともに運搬機器の分野に全精力を傾注した。
ときには激しく両者の意見がぶつかたこともあった。
源次郎は、こんな典雄の成長を喜び、また誇りにさえ感じた。
資金工作に四苦八苦
いよいよ本格生産による商品化だ。
その前に、彼はこの重力コンベヤのネーミングを考えねばならなかった。
商品名も製品そのものと同様に、売るための大きな要素であり、その良し悪しによって売り上げがずいぶん違ってくる。
この重力コンベヤも「コロ」を応用したものである。そのコロの上を物がコロコロと転がっていく。<o:p></o:p>
「コロとコロコロー」
源次郎は、この語呂あわせに満足した。躊躇することなく「コロコンキャリヤー」と名付けた。
名前はついた。後はそのための資金手当であった。
しかし、その資金も、これまでの不況ですっかり使いはたし、神戸銀行高砂支店にかけ合った。
その銀行は、創業以来の付き合いもあり、簡単に貸してくれるものと思っていたが、よい返事は帰ってこなかった。
源次郎は、コロコンキャリヤーの試作品を見せて説明した。
結局、不成功に終った。これからの資金工作に、これといった策も浮ばない。
中小企業金融公庫にかけ合うことにした。
やっとのことで、兵庫相互銀行を窓口に、中小企業金融公庫から四年間の期限で三百万円の金を借りることができた。
まだ、つぶれてまへんか
やっと手に入れた三百万円。源次郎はさっそく、プレス一台年賦払いで買い入れた。
これがコロコンキャリヤ一生産開始のとっかかりであった。
「運搬の合理化」という言葉は、まだ耳新しいころだっただけに、果してこの運搬機器を本格生産しても大丈夫かという、一抹の不安はあった。
そのこころ、すでに運搬の合理化についての研究はかなり進み、マスプロ工場における生産工程のコンベヤ化は源次郎の予想以上に利用されていた。
源次郎の「チョット時期が早いのではないか」という不安は取りこし苦労だった。
しかし、生産をはじめてみると、こんどは運転資金にたちまち困ってしまった。
兵庫相互銀行から借りた300万円は、ほとんど機械の購入、材料の手当に使ってしまっていた。
源次郎は、コロコンキャリヤーの生産に励むかたわら、せっせと銀行通に精をだした。
やっと金を借りることができたが、そのあとがまた大変であった。
銀行員が工場へくるたびに「大庫はん。まだつぶれておりまへんな」と、源次郎をからかうのである。
ぼつぼつ、コロコンキャリヤーに買い手がつきだしたのは昭和32年の頃からであった。
*『創造の人。大庫源次郎の生涯』より