ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(292):二つの志方

2012-06-02 05:55:07 |  ・加古川市志方町

きょうは、「志方郷(36号)」で松本光明氏の書かれた「志方郷を東西に分ける一拠点・・・大宗」を参考に「二つの志方」について考えてみます。

   二つの志方

015志方が登場する古文書に、暦応三年(1340)正月二四日付の安保光泰入道光阿の残していた文書があります。

この古文書によると、現在志方町地域は、東西の二つの志方に分かれています。

『加古川市史(第四巻)』で、安保光泰の残した文書の一部を確認しておきます。

  ・・・・・

   一 播磨国土佐余部内西志方郷

   一  同 土佐余部東志方

  ・・・・・

志方の地図をご覧ください。

志方・西志方は、一つのまとまりのある平地に広がっています。

そして東志方との間には、大藤山一支脈の天神山・宮山・石打山・吉広山の山々が壁のように続いています。

(写真上は、向かって左の山は天神山・右は宮山、手前が志方・西志方、山向こうが東志方)

   大宗(志方を東西に分けた一拠点)

E809ce74さて、この東西両志方を結ぶ道路は、慶長167年(16112)に描かれたと思える慶長播磨國絵図(解読図)でみると、志方町と細工所とをつなぐ道路(赤く塗った道)が一本あるだけです。

その中間に大峯村という村があります。大峯村は現在の東志方大宗でしょう。

この後、正保播磨国絵図では、志方町から大峯村を経て、高畑村と東中付に向って道が分岐し、細工所村へは高畑村を経由しています。

ですから、天神山と宮山の間の峠は、二つの志方を結びつけるパイプのような役割にあり、ここを通して志方・西志方と東志方は結びついていたと考えられます。

しかし、基本的には志方は二つの地域だったようです。

それに、東志方は江戸時代に天領(幕府領)として、志方・西志方(姫路藩)と違った歴史を歩むことになりました。

志方町が一つのまとまりのある地域となったのは、明治時代以降と考えてよさそうです。

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