ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

西神吉町探訪:長慶から西脇(清水)の地域

2007-05-19 06:48:49 |  ・加古川市西神吉町

_517   清水村の西脇から長慶村へかけての一帯は、法華山谷川とその支流の合流点で、常に湖沼のような湿地帯が多かったという。

  西脇の「かもめ池」(写真)は、その湿地帯の真ん中にある。

  「かもめ池」から周囲を見渡せば、山や台地に囲まれており、このあたりが地形の底であることが分かる。

  昔から、法華山谷川があふれたり、長雨が続いた時には、溢れた水はこの辺りに押し寄せ、まさに湖沼のような風景をつくった。

  『私たちのふる里』(加古川市立西神吉小学校PTA)は、次のように書いている。

  ・・・長慶は土地が低いので、度々洪水にあい、そのため度々飢饉になりました。洪水の時は、西村の人が牛を預かってくれたり、他の村からも“おむすび”を持って来てくれました。

  飢饉に備えて米を貯蔵しておき、飢饉の時はそれを炊いて食べました。

  ・・・田の水は法華山谷川から引いていましたが、(今と違って)川幅が狭く・・・少しの雨でもすぐ洪水になりました・・・

  西神吉は、洪水等で困った地域と水が少ない台地上の地域からなっていた。

  昨日「かもめ池」へ行ってみた。池は写真のように全体が草で覆われ湿地帯のような風景をつくっている。

  人間の侵入に驚いたのであろう、二羽の白鷺が、大きな羽音を立てて飛びたった。

   *『私たちのふる里』(加古川市西神吉小学校PTA)参照

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西神吉町探訪:清水

2007-05-18 08:06:26 |  ・加古川市西神吉町

_505_1     写真は、加古川市西神吉町鼎(かなえ)の清水にある本覚山・妙心寺である。

  本文の内容と直接関係がない。清水を代表させたかっただけである。

  明治11年12月に、清水村は下富木村・長慶村と共に合併して鼎村(かなえむら)となった。

  その清水村であるが、もとは妙心寺の少し西の字・古屋敷(ふるやしき)にあった。

  慶長年間(1596~1614)に現在の場所に移住し、村をつくり、「清水新田」と名づけた。

  村人は、水がほしかった。井戸を掘り、やっと水を得ることができた。村人は、村の名前を「清水」とつけた。

  多くの村人は、名前も水埜・清埜・清田・野村などとつけた。

  しかし、十分な量とはいえなかった。

  『私たちのふる里』(加古川市西神吉小学校PTA)は、次のような話を載せている。

  ・・・・(清水の村人は)自分たちの生活を切り詰め、肉・魚介類は食べずに、野菜を主に食べた。

  昔から、清水へは魚屋さんは出入りしなかった。

  そして、「穀物は絶対にねずみに食べられないようにするために、ねずみも住めなかった」とまで言われた。

  また、牛馬は働かすだけ働かして、充分な餌は与えられなかったため、牛馬は良く死んだ・・・・

  内容はともかく、清水は水が充分でなく、苦しかった昔の人々の生活のようすを伝えている。

  「清水」は、農民のせつない願から生まれた地名である。

*『私たちのふる里(第一集)』(加古川市立西神吉小学校PTA)参照

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西神吉町探訪:宮前村

2007-05-17 07:53:09 |  ・加古川市西神吉町

Bdfc309b   右図は、「元禄播磨国絵図(絵図)解読図」から、さらに西神吉村の部分を取り出した。

   宮前村と宮前新村の場所を確かめて欲しい。

  宮前村は、宮前新村と明治10年12月合併して宮前村となった。

  宮前村は、宮前村明細帳が「相知不申候」と語るようにわからない。

  村名は、神吉八幡社(妙見社)の宮の前に発達したからであろう。

  宮前新村は、「宮前新村明細帳(寛保二・1742)」に「一 村之初り寛文九酉年」と記録されているように、宮前新村は、1669年に宮前村から分かれた新村である。

22b9d276_3   今日は、明細帳から宮前村・宮前新村の数字を拾ってみたい。当時(江戸中期)の村の姿を想像してほしい。

◇宮前村明細帳より

 人口  307人  (男149人  女158人) 

 戸数  66軒(本百姓47軒・水呑19軒)

          大工  4人    牛 14疋

◇宮前新村明細帳より      

 戸数  40人  (男 19人  女 21人)

      10軒(本百姓2軒・水呑8軒) 

                牛 1疋 

  宮前新村の村高は12石3升7合の村で、生活はかなり厳しい。

  *水呑・・・農地を持たない百姓

  少し年代の異なる数字を合計しているが、江戸時代中期、宮前村・宮前新村をあわせると、76軒・347人の村であった。

  ちなみに、本年(5月1日現在)の宮前の人口は、789人(男381人・女408人)、世帯数281である。

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西神吉町探訪:免四つ七分(宮前村)

2007-05-16 06:50:29 |  ・加古川市西神吉町

8536b28f_1     手元に西神吉町宮前の明細帳(寛保二・1742)の写しがある。

  右の四行だけを読んでおきたい。

一 高四百弐拾八石弐升九合  免四つ七分

   此田畑弐拾六町七反三畝拾壱歩

   内 田 弐拾三町五反弐畝弐拾五歩

     畑 三町弐反拾六歩 

   一行目の免「四つ七分」に注目して欲しい。免とは、年貢率のことで,収穫の四割七分が税金ということである。

  この免(年貢率)は、他の地域と比べて少ない。

  この時代、「免」は5~6割が普通である。ちなみに私の村(加古川市尾上町今福)6割である。

  年貢率が低いことは、藩が寛大であったという事ではなく、それ以上に税をかけることができなかったたことをあらわしている。

  つまり、この辺りの村は高台にあり、水が得にくく、一般的に生活は貧しい地域であった。

  西村の明細帳(宝暦十年・1760)も、西村の年貢率は「四つ七分」と記している。

  年貢は、これだけではなく犬米・夫口米・草藁銀・柿渋などの雑税があり、実際は五割を超える。

  百姓の悲鳴が聞こえてきそうである。

  明細帳を更に続けたい。

*『加古川市史(第二巻)』『宮前村明細帳(写し)』参照

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西神吉町探訪:田中五郎兵衛

2007-05-15 05:46:16 |  ・加古川市西神吉町

_487_1    西神吉小学校から東北に少し行った所に田中五郎兵衛の墓(写真)がある。

  西神吉小学校のあたりは、標高10mばかりの台地である。

  江戸時代のはじめ、五郎兵衛は代々西村の庄屋を勤めていた。

  五郎兵衛の村は貧しかった。

  彼は、何とかしてこの地を豊かな水田にかえたいと考えた。

  しかし、そのための水源がない。

  高台を水田にするためには池に頼るほか手段がなかった。

  五郎兵衛も時代の人である。

  江戸時代の初めは、わが国の全歴史を通しても、他の時代に類例がないほど土木技術が発達し、日本の社会が大きく変わった時代であった。

  つまり、戦国時代の技術(築城・土木・鉱山等の技術)が江戸時代に農業に転用されたのである。

  五郎兵衛は、神吉村の大池から水を引くことを姫路城主に願い出て、承応三年(1654)許可を得た。

  用水の工事に着工し、明暦三年(1657)用水路を完成させた。

  25町歩の稲田をつることができた。西村・中西村の人々の喜びは大きかった。

  五郎兵衛は、長命で享保元年(1716)年、96歳でなくなった。

  遺言で西村の水路が良く見える場所に、五郎兵衛の墓所はつくられた。

  五郎兵衛の業績は、もっと紹介されてよい。更に調べてみたい。

*『私たちのふる里』(加古川市立西神吉小学校PTA)参照

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西神吉町探訪:神吉晴夫

2007-05-14 06:14:02 |  ・加古川市西神吉町

_029_3   加古川市西神吉町長慶(ちょうけい)には、「神吉(かんき)」の姓が多い。

  神吉晴夫は、明治34年に長慶に生まれた。

  昭和2年東大を中退して、講談社に入社した。

  昭和20年、講談社から分かれた光文社の出版局長として参画し、昭和36年社長に就任した。

  晴夫の活躍については『新・かこがわ事典』に(新・かこがわ事典編集委員会)に詳しく紹介されている。

  『頭の体操』(多湖輝)・『英語に強くなる本』(岩田一男)等は、カッパ・ブックと呼ばれ、昭和30年代ミリオンセラーとなった。

  これらの出版の仕掛け人が神吉晴夫であった。

  晴夫が活躍したのは、東京オリンピックが開催された前後で、彼の出版に対する考えは、「読者層を20才前後に見据え、高度な内容を平易な文章で語る」ことであった。

  それに、書名の決定にもこだわったという。

  ワンマンな経営に反発する労組と対立し、昭和45年に退陣をよぎなくされた。

  晴夫が、最後に長慶を訪ねたのは、昭和51年11月だった。

  翌年の52年2月、76歳で急逝した。

*『新・かこがわ事典』参照、なお「長慶」については、昨年の7月9日のブログ「鼎の長慶」をご覧ください。

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西神吉町探訪:平岡定太郎(三島由紀夫の祖父)

2007-05-13 08:10:09 |  ・加古川市西神吉町

_076_2    平岡定太郎(ひらおかさだたろう)の菩提寺は、西神吉町宮前の真福寺(写真)である。

  「平岡定太郎って誰?」と思われるかもしれないが、彼は小説家・三島由紀夫の祖父である。

  定太郎は、文久三年(1863)、志方町に生まれた。

  苦学のすえ東京帝大(現:東大)英文科を卒業した。

  彼は、原敬の傘下で活躍する。原は政党政治と官僚機構を一つにした仕組みを目指した。

  原敬がつくり上げた政党政治と官僚機構が結びついた仕組みは、その後の日本政治の原型となった。

  大規模な人事改造がおこなわれた。

  その中で、定太郎は福島県知事に抜擢された。この時、定太郎43才だった。

  その後、明治41年、定太郎(45)は、樺太庁長官として赴任する。そこで、疑獄事件に巻き込まれる。

  三島由紀夫は、小説『仮面の告白』で、「祖父が植民地(樺太のこと)に起こった疑獄事件で、部下の罪を引き受けて職を退いてから私の家は、殆ど鼻歌まじりといいたいほどの気楽な速度で、傾斜の上を辷(すべ)りだした・・・」と書いている。

  彼の父・梓(あずさ)も東大出身で農林省に勤めた。由紀夫は「凡庸な官吏であった」と述べている。

  梓の長男が平岡公威(きみたけ)、つまり三島由紀夫である。

  昨年、真福寺を訪ね、お聞きすると「平岡家の墓は、志方の方へ移した」とのことであった。

  三島由紀夫については、昨年6月21日のブログ「三島由紀夫 in  加古川市」をご覧ください。

*『ペルソナ』(猪瀬直樹)参照

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西神吉町探訪:飛行機野郎・岸本光次

2007-05-12 07:07:47 |  ・加古川市西神吉町

_482_1    西神吉町に関係する人物を、4回シリーズで紹介したい。今日は、その1回・岸本光次である。

  岸本光次氏は、大国出身の飛行機野郎である。

  光次が最初に飛行機に関心を持ったのは、アメリカの飛行士が姫路の旧陸軍練習場に着陸した時であった。

  二回目は、船員をしていた頃、ブラジルのリオデジャネイロで、そして3回目は陸軍の飛行機を見て飛行機乗りになる決心をしたという。

  18才から20才までの外国航路の船員生活をやめ、飛行機に取りつかれた光次は上京した。

  大正9年1月4日だった。

  当時、民間も含めて正式な飛行学校はなかった。

  ただ、民間飛行士がオンボロの軍用機を払い下げて、エンジンの解体、修理、練習をするという所が数ヶ所あっただけだった。

  光次は、そんな施設で飛行機について学んだ。

  その後、大阪航空企業研修所に移り、二等飛行士に合格した。

  光次は、昭和2年2月11日、自前の飛行機で郷土訪問飛行を敢行した。

  一万五千人が見守る中、現JR鉄橋上流の加古川河川敷に見事着陸した。

  その日は紀元節、光次27才だった。

  大国の八幡神社境内に、光次を顕彰する石碑(写真)がある。

*『私たちのふる里』(加古川市立西神吉小学校PTA)参照

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西神吉町探訪:大国里・含芸里

2007-05-11 08:01:35 |  ・加古川市西神吉町

29f46856_8   12月4日のブログに使った図(右図)を再度使いたい。

  奈良時代に編集された『風土記』は、国ごとの産物・伝説・土地の質等をまとめている。

  『風土記』に、「印南郡(いんなみぐん)には益気里(やけのさと)・含芸里(かむきのさと)・大国(おおぐにのさと)・六継里(むつぎのさと)等があった」と書いている。

  印南郡は、加古川右岸に広がる。

  このうち、大国の里は西神吉町に地名が残るが、『風土記』には、大石・伊保山(いほやま)・池の原等の地名がでてくる。

  当時の大国里は、現代の大国を含めて西および西南の平野地に伸びていたようだ。

  いずれにせよ、「百姓(おおみたから)の家、多く此(ここ)に居り。故(かれ)、大国といふ」と記しているように、郡内でも豊かな地域だったのであろう。

  含芸里(かむきのさと)は、東神吉町から志方町にかけての地域であったと思われる。

  益気里(やけのさと)は、東神吉町から平荘町にかけての地域と推測される。

  六継里(むつぎのさと)は、海岸部であろうが、はっきりしない。

  現在の西神吉町は、古代の大国里と含芸里の一部を含む地域であった。

*『加古川市史(第一巻)』参照

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西神吉町探訪:西神吉町の台地

2007-05-10 09:17:58 |  ・加古川市西神吉町

_484   明石市の江井島から林の海岸を散歩されてことがあるだろうか。

  そこは、10mもある台地が急に海に落ち込だ海岸をつっている。

  屏風を立てたような風景のため、屏風ヶ浦と呼ばれている。

  この海岸は、昭和6年「明石原人」が発見されたことでも知られている。

  地球は、幾度となく氷河期を経た。暖期には、海が広がった。

  それに、この大地は、現在も続いているが隆起している。

  屏風ヶ浦は長い年月、隆起と海の侵食により、現在の地形をつくった。現在は、護岸工事で侵食はとまっている。

  話を西神吉町にもどしたい。岸から大国・中西にかけて、写真のような崖(段丘)が続く。

  ここは、かつての海岸であり、屏風ヶ浦と同じく波の浸食作用により急な崖をつくった。

  屏風ヶ浦と決定的に異なるのは、近くに大河加古川があったことである。加古川が、土砂を大量に運び崖の南に平野をつくった。 

  海は、はるか南に遠ざかった。そのため海の侵食の影響は屏風ヶ浦ほどではなかった。

  西神吉の崖の北に広がる台地も屏風ヶ浦とおなじく、小さいが一貫した隆起現象が続いている。

  つまり、西神吉町に広がる地域は、隆起した台地上にある。

  加古川東岸の印南野台地と同じく台地を潤すほどの川がない。水の確保が難しい地域である。

  西神吉から・志方に広がる台地を勝手に、「西神吉・志方台地」と呼んでおく。あまり紹介されていないが、ここでは水との闘った歴史があったと想像する。

*『加古川市史(第一巻)』参照

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西神吉町探訪:古代山陽道

2007-05-09 10:10:08 |  ・加古川市西神吉町

952e2b5b_2   『日本書紀』は、大化二年(646)正月の条の「改新の詔」に、「初めて・・・駅馬・伝馬を置く」とある。

  「大化の改新」により新しくできた政府は、まず全国の道を整備し、各地に駅(うまや)をおいた。

  とりわけ、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道は最も重要な道であった。

  兵庫県下におかれた駅は、右図のようである。

  奈良から加古川の野口まで伸びた古代山陽道は、加古川の流れに行く手を妨げられた。

  古代山陽道は、今の国道二号線に沿ってつくられたが、そこは加古川の氾濫原であった。

  そのため、確実に物を運ぶため、下図の点線のように古代山陽道は、野口から日岡山へ、そこから升田へ渡り、大国・岸・魚橋というバイパスが多く使用されたようである。

43f82426_1   西神吉の中西・大国・岸の村々に沿って、古代山陽道が通ったのである。

  つまり、奈良時代、日本最大の道路が西神吉村沿ってはしっていた。平安時代も状況に、大きく変化はなかったようである。

  記録によると鎌倉時代、寺家町に山陽道の駅が設置されている。

  この頃から加古川の氾濫原は徐々に安定し、山陽道も、野口から真っ直ぐ西に伸びたようである。

*『兵庫探検(歴史風土編)』(神戸新聞社)、『加古川市史(第一巻)』参照

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西神吉町探訪:中西廃寺

2007-05-08 18:46:28 |  ・加古川市西神吉町

_471   日本に仏教が伝わった。

  まばゆい仏を見て、その教えは分からないものの人々は畏れ、尊崇した。

  その後、仏教は日本各地に広がり、やがて加古川の地にも伝えられた。

  それも、比較的早い白鳳時代(645~710)である。

  加古川市西神吉町中西にあった寺院(中西廃寺)もそのひとつである。

  『加古川市史(第一巻)』は、次のように述べる。

  ・・・この寺院(中西廃寺)は、正式な発掘調査が行われていないため、詳細は明らかでない。

  ・・・現在、薬師堂境内の西南隅にある塔心礎(写真)は、1919年(大正8)に元の位置より50センチばかり移動したという話があるが、伽藍配置を復元する有力な手がかりとなる。

  法隆寺式伽藍を備えていたようで、創建は白鳳時代である・・・

  白鳳時代、各地に寺院が多く建られているが、その創建者は、どんな人物だろうか。

  7世紀になると古墳を造る風習は次第に衰え、消えてゆく。

  これは、「かつて、古墳を建設した有力な豪族がやがて、仏教の影響を受け、古墳に代わって寺院を建設したのだろう」といわれている。

  平荘湖の周辺に、たくさんの古墳があった。とりわけ、稚児窟古墳の石棺は見事である。

  この古墳の主が、中西の寺院を建設したのではないだろうか?そうでなかったとしてもこの辺りの古墳の有力者が中西廃寺の建設に関係したのだろう。

*『加古川市史(第一巻)』参照

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西神吉町探訪:石井の清水

2007-05-07 13:06:06 |  ・加古川市西神吉町

_472   中西(加古川市西神吉町中西)を東西に市道が走る。 

  その南に「石井さん」と、地元の人に呼ばれている「石井の清水」がある。

  昔、「石井の清水」は、よほど有名であったのであろう、江戸時代の観光案内書『播州名所巡覧絵図』にも、次のように紹介されている。

 ◇石井の清水◇

  ・・・中西村にあり、石井と号(なづ)けしは、方三尺斗の石、丸一尺二寸の穴を穿(うが)ち、井の上に置り。

  故に、石井といふ。清水は近郷の名物にして、溢れて流るゝ事、昼夜を捨(すて)ず。

  昔、侯泊(こうはく・・・ここでは大名の意)、茶の水に汲みし也・・・

  この文章にある「三尺斗の石」は中西廃寺の塔の露盤である。

   (中西廃寺については、明日のブログの予定)

  先日、この清水を訪ねた。写真のように「石井さん」は鉄の蓋がされて、現在は使われていない。

  水道の時代になり、その役割を終えたのだろうか。

  昔、西神吉地方は、水の質も悪く・水量も十分な地域ではなかった。

  水との苦闘の歴史を持っている。

  この「石井さん」は、村の人々の生活を支え続けてきた。

*『播州名所巡覧図絵』、『私たちのふる里(第一集)』(加古川市立西神吉小学校PTA)、『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照

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西神吉町探訪:辻姫の伝承

2007-05-06 08:33:00 |  ・加古川市西神吉町

_479_1   辻(加古川市西神吉町辻)の正念寺(しょうねんじ)の伝承である。

  ・・・戦国時代、今川義元が織田信長軍に敗れ亡んだ。家臣等は流浪した。

  そのひとりの高谷左衛門秀重が、この地にやって来た。

  あたかも、織田信長が播磨平定に取りかかった時代である。

  播磨の盟主、三木の別所長治は毛利軍についた。

  秀重も三木方に味方し織田軍と戦った。

  しかし、戦いに破れ天正八年(1580)、死亡した。

  残された妻子は、再び流浪した。

  そして、20年後六人の子どもをつれて秀重の妻「つじ」は、この地に戻って村を盛りたてた。

  村人は、彼女の名「つじ」を村の名とした。

  六人の子どもが寺を建てた土地を「寺田」と呼んだ。そして、「辻姫の墓」(写真)と小さな堂をたてて、その遺徳をしのんでいる・・・

  以上が辻姫の伝承である。

  物語としては楽しいが、「辻」の名のおこりは、現在の魚橋・志方線と神爪(かづめ)・辻線との交わった場所「辻」をその名の起こりとする方が自然のようである。

  話は一気に味気なくなる。夢を壊したような気になっている。

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西神吉町探訪:智徳法師

2007-05-05 08:05:41 |  ・加古川市西神吉町

52fd21a0   「智徳」は、昨日ブログで紹介した「蘆屋道満」の師匠である。

  明石沖で船荷を奪った海賊を呪術で捕らえた知徳の話が『今昔物語・巻二十四』にある。

  道満は、播磨一の陰陽師であった慶妙寺の智徳に弟子入りした。

  言い伝えによると、慶妙寺は西神吉町中西にあったという。

◇智徳法師の妖術◇

  ある日、智徳が京都からの帰りに、明石の浜にさしかかった。

  浜辺で三人の男が泣いていた。

  男たちは、「昨日、この沖で海賊に襲われ、船も荷物も盗られ、乗組員も殺された。そして、海に飛び込んだ三人だけが助かった・・・」と答えた。

  智徳は、こともなげに「拙僧が海賊たちをとらえてくれよう・・・」と、三人の男と沖に出た。そして、杖で波に何かを書いた。

  それから、西の方を向いて呪文を唱えた。

  七日目の朝だった。大きな船が西の方から漂ってきた。なんと、奪われた船ではないか。

  船中を見渡せば海賊たちは、よっぱらったようにふらふらしている。奪われた荷物もそのままである。

  智徳は、海賊に「お前たちはこんな卑しいことをやめろ。みんな首を切ってしまうところだが、今後、こんなことをしないと誓うならばゆるしてやろう・・・・」と言い聞かせた。

  それ以後、明石沖には海賊は、現れなかったという。

*『今昔物語』、『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照

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