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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

野口を歩く(23):木造地蔵菩薩立像

2012-10-18 07:20:25 |  ・加古川市野口町

B99c86c2_3教信寺の木造地蔵菩薩立像(写真)について『信仰の美術(東播磨の聖たち)』(加古川総合文化センター)下記のように説明されています。

補足を加え、若干書き変えて紹介します。

  

 教信寺に伝わる木造地蔵菩薩立像

一木造   像高 935センチ

   平安時代末期~鎌倉初期(1213世紀) 

このお地蔵様は。教信寺本堂に向かって左に安置されています。

左手は宝珠を捧げ、右手に錫杖を握るいわゆる声聞形(しょうもんぎょう)の地蔵善薩立像です。

台座、宝珠、錫杖、ようらく等は後に補われています。

さらに、傷みの激しい部分を中心に、全身の表面は修理されています。

両手首から先、両足は別の材で、足柄は新しいもので補われています。

また、面部は修補により鼻線から口にかけてかなり手が入っているようです。

その他、全身に浅い鉈(なた)で彫ったような痕が見られます。

これらの修理は一見しては像容を大きく損ってはいません。

いわゆる平安時代末期から鎌倉時代初期の地蔵菩薩の姿をよく留めています。

  

  野口城の攻防で持ち出された地蔵菩薩か?

教信寺の仏たちを語る時、必ず登場するのは「野口城の攻防」のことです。

この地蔵様も教信寺の寺伝に見える、羽柴秀吉の軍によって諸堂が灰燈に帰したとき持ち出された什物の中に、小野篁(たかむら)の手刻とされる地蔵菩蔭がありますが、本像がその地蔵菩薩であるとも考えられています。

<蛇足>

三木合戦では、加古川地方の寺社・諸城は三木方(毛利に味方した勢力)と信長・秀吉方に分かれて加古川市域でも激しい攻防がありました。

三木方(別所氏)に味方した寺社・諸城はことごとく炎上し、多くの宝物がこの時焼失しました。

鶴林寺には多くの宝物が残されていますが、一つの理由は、信長・秀吉側につき攻撃を受けず焼失を免れたためです。

教信寺は三木方(敗北側)につき秀吉・信長方軍の激しい攻撃を受け炎上し、多くの宝物は焼失してしまいました。

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野口を歩く(22):銘菓「のぐちのねんぶったん」

2012-10-17 00:14:16 |  ・加古川市野口町

Manju2 きょうの話題は「まんじゅう」の話です。

軽く読み飛ばしていただいて結構です。

   

 加古川に銘菓誕生

加古川に新しい銘菓が誕生しました。

名前も野口念仏にちなみ、ズバリ「のぐちのねんぶったん」です。

野口念仏(913~15日)の3日間で、販売を予定していたところ、13日中に完売されてしまいました。

私も14日に「ねんぶったん」に出かけましたが、購入することはできませんでした。

残念!

買った人の話では、酒粕入りであっさりとした味でとても美味しかったそうです。

今は、製造販売はされていませんが、今後広く販売してゆく予定だそうです。その日が待たれます。

14日の「ねぶったん」では購入できなかったのですが、銘菓の由来を書いた説明書をいただきました。

次のように銘菓が紹介されています。

   

   銘菓「のぐちのねんぶったん」の由来

播州賀古乃念仏山教信寺(ばんしゅうかこのねんぶつさんきょうしんじ)の古瓦に使われていた紋様の「念」の字を複写し、「口」の字の中に入れた焼印は、教信が日本で当地方の庶民に授けた口に称えるお念仏を表したものです。

教信が始めた口称念仏は後の親鸞・一遍も敬慕し、鎌倉浄土仏教開花に大きな影響を与えました。

*写真:教信寺HPより

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野口を歩く(21):教信上人像

2012-10-16 17:05:13 |  ・加古川市野口町

ある小説では、野口城は、攻められ炎上しました。

その時、二人の僧は教信上人のお像を運び出しことに成功しました。

そして、教信の像はもともと立像であったが、持ち出しに成功しましたが、傷みが激しく、今のような、お首だけの像になったとしています。

教信頭部像

8531748 ・・・「胴から離したままのお首は、下の方がささくれて、あま、あまりも痛々しい。

その下の方を削り落して平らに均せば、億尾も安らかに座ろうしあんたの気持もおさまろう」

・・・

教信寺炎上の緊急のさなかに、胴から離された教信沙弥の首像は、折れた頸椎野部分が、柱のように突き出ていた。

それを切断しようとして春成(僧)の心は揺れ動いた。

「開祖の法躰(ほうたい)に手を懸けることがあって許されるでしょうか」

・・・

   「お首だけの像」としてつくられる

教信のお首だけの像は、長い間そう信じられてきましたが、最近の調査の結果、もともお首だけの像として造られたことが分かりました。

『仏と神の美術(中世いなみ野文化財)』からお借りします。

・・・この像が、他の像の頭部を転用したものではなく、はじめから頭部の実の像として制作されたものであることがほぼ確かになった。

平知良(頸部の底にあった墨書銘)は地頭層などこの地域の中世の富裕者であったかも知れない。

また内部の修理銘によると、康正二年(1456)に快盛が願主となって修理された教信上人之御頭とされている。

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野口を歩く(20):残った阿弥陀如来立像

2012-10-15 11:52:49 |  ・加古川市野口町

加古川評定が決裂し、三木合戦が始まりました。

その最初の本格的な戦いは秀吉による野口城でした。

野口城の攻防では、野口城の兵はもちろん、教信寺の僧たちも共に闘いました。

しかし、援軍もなく、むなしく野口城は落城し教信寺も炎上しました。

この時、ほとんどの宝物は焼失してしまいました。

本尊の阿弥陀如来像(写真)などは奇跡的に残されました。

教信寺の小杉隆道氏は『教信()・涅槃』を著し、教信寺の宝物の焼失時の状況を次のように想像しておられます。

『教信(四)』から一部お借りします。   

    教信寺炎上

9dd192f2・・・・戦場荒しのこの雑兵どもは、重く閉ざされた扉を破って宝蔵の内部に侵入し、寺僧を切り捨て、手当たり次第に収蔵する品々を引きだした。

清和帝の詔書、崇徳帝の祈願文、五深草帝宸筆(しんぴつ)等帝、上皇の親書、勅額の外縁起(えんぎ)、過去帳,資材宝物帳や多くの古文書、記録簿冊類が経書とともに投げだされ、宝蔵の外には見る間におびただしい反故(ほご)の山となった。

だが、この種の品々は、雑兵(ぞうひょう)どもには無用のものだった。

金銀の類が手に入らにと見ると、狼にも似た男どもは、腹いせに無法な行為に出た。破り捨てた文書の山を点在する書堂の前に積み上げると、次々に火をつけた。

火焔は瞬く間に堂塔をなめ、殿堂諸門一棟も残さず焼き尽くし、仏器、宝物ことごとく灰になった。・・・(以上『教信(四)より』)

    残った阿弥陀如来像立像!

天正6年(1578)、秀吉軍に余りすべての諸堂が灰燼となりましたが、わずかな仏具・仏像が奇跡的に残りました。

それらを紹介します。

きょうは、阿弥陀如来立像の紹介です。

この像は、戦国期前期から教信寺本尊であったと考えられています。

頭部を除いて大きく修理されていますが、全体のお像は損なわれていません。

台座、後背、脇侍は江戸時代後期の修理です。

台 座の銘文から弘化三年(1846)に現在の台座と光背が整えられたのが分かります。

*『仏と神の美術(中世いなみ野の文化財)』、『小説・教信(四)』参照

*写真:阿弥陀如来立像(「平安~鎌倉時代、1213世紀」の作)

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野口を歩く(19):野口城の戦い

2012-10-12 08:14:25 |  ・加古川市野口町

野口城の戦い

 82f1fdc7_2「加古川評定」は、決裂しました。

そして、秀吉軍と三木を中心として加古川地方戦いが始まりました。

まず、黒田官兵衛が指導した。官兵衛の指揮した別府での合戦がありました。

その後、本格的な合戦となり、まず、野口城が攻撃の目標とされました。それは、野口城が比較的小さかったこと、また、大坂・京都へと続く交通の要所であり、秀吉側にとっては攻めやすく、利益が大きいために目をつけたのでしょう。

1578年(天正6)4月3日(旧暦)、3000ほどの秀吉軍が野口城を攻撃しました。

野口城は周囲が深田でやわらかく、南に池(まやがいけ)、西に藪があり、攻めにくかったのですが、長い戦いには持ちこたえることができませんでした。

野口方は、やがて三木城からも、また周辺の仲間からの援軍があり、内と外から秀吉軍を挟み撃ちにできるものと考えていました。

が、三木城から、さらに近隣の城からも援軍はありませんでした。

三木方にとっても、野口城への援軍を考えていましたが、援軍を出すと、手薄になってしまいます。そのすきに、秀吉の別軍が三木城を攻撃するだろうと考え、援軍を出せなかったのが実際のようです。

 ただ、教信寺の僧兵が野口城兵と一緒になり、約380人で最後まで戦いました。

3日間の戦いでした。

ついに、野口城は落城しました。

現在、城の跡も定かではありません。

     黒田官兵衛、大河ドラマに

10日、NHK214年度の大河ドラマに「黒田官兵衛」が決まったことを伝えました。

 ドラマを担当する脚本家の前川洋一氏は、官兵衛を次のように紹介しておられます。

・・・・

 人は殺すよりも使え”―― 黒田官兵衛は、戦国乱世にあって一風変わった男だった。生涯50数度の合戦で1度も負けを知らなかった戦の天才だが、槍や刀で人を殺すのではなく、智力で敵を下す、それが官兵衛の真骨頂だった。
 信長、秀吉、家康の三英傑に重用されながらも、あり余る才能ゆえに警戒され、秀吉には自分の次の天下人とまで恐れられた男。それでも乱世を見事に生き抜き九州・福岡藩52万石の礎を築いた男、黒田官兵衛。
 和歌や茶の湯を愛した文化人であり、敬虔なクリスチャンとして信仰を貫き、側室を持たずただ一人の妻と添い遂げた律儀な男。一方で、権謀術数渦巻く戦国時代にあって、巧みな弁舌と軍略で秀吉を支えた冷徹な軍師。
 播州姫路に生まれた地方大名の家老はいつしか、天下一の軍師へと変貌する。それは、乱れた世を正すために、時代がこの男を必要としたからかもしれない。

・・・・

今から楽しみです。官兵衛は加古川とも深い関係があります。官兵衛・三木合戦の話題は、このブログでも取り上げます。

 *図:「三木合戦図」の野口城の戦い(三木法界寺蔵

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野口を歩く(18):加古川評定

2012-10-11 08:10:03 |  ・加古川市野口町

  野口の教信寺のあたりを歩いています。話の都合上少しより道をして、「加古川評定」について書いておきます。

秀吉が加古川へやってきた

  057 秀吉が加古川へやってきました。

当時、信長は武田・上杉と対峙しており、大坂では石山本願寺(浄土真宗)が信長に対抗して、身動きがとれませんでした。

 その時、石山本願寺を支援していたのが、毛利氏でした。

 やがて、播磨を舞台にして信長軍と毛利軍人の激しい戦いが展開されました。

 当時、野口・神吉・加古川・志方(以上加古川市)・高砂・蛸草の諸城は、三木の別所氏の支配下にありました。天正5年(1577)信長から別所氏に一通の手紙が届きました。

 内容は「毛利攻めにおいて、信長方に味方されたい・・・・・・恩賞ははずむ」というものでした。城主・別所長治(べっしょながはる)は、この時21才でした。

 やがて、評定(会議)が加古川城(加古川西高等学校の東にある称名寺が加古川城跡・写真上)で開かれました。

 信長側からは秀吉が、そして三木側からは城主・長治に代わり、叔父の賀相(よしすけ)等が参加しました。

 世に名高い「加古川評定」です。この評定は、まとまらず三木方は毛利に味方し、信長方と戦うことになりました。

評定の状況は、小説ですが司馬遼太郎の小説『播磨灘物語』の一部を読むことにします。

    加古川評定

 85c638f8・・・いよいよ秀吉が広間にあらわれ、評定がはじまりました。当然のことながら秀吉は正面の席にいる。

 播州者は、みな秀吉をあるじのごとく秀吉にむかい、はるかに下がっている。

 「なぜじゃ、我々はみな羽柴ごとき者を主のように仰がばならぬ・・・・」と、どの男も、この位置関係に不満を持ち、別所賀相(べっしょよしすけ・三木城主長治の叔父)のごときは「ちょっと、かわやに・・・・」とつぶやき、ゆっくり腰を上げて、そのまま部屋を出て小一時間帰ってこなかった。

 評定も進みつつあった時である。賀相に言わせれば、「下郎上がりが、何を間違えて、かかる場所に座っておるのか・・・」といいたかったところであろう。

 「かわやに・・・」といった賀相は、そのまま門前に出、そこで待たせてあった供の者を連れ、その辺を一巡し、ひまをつぶした。

 ・・・・この後、もとの席に帰り、長々と秀吉に戦法を講釈した。

 たまりかねた秀吉は「よく承った・・・」と長談義を中断させた。・・・(『播磨灘物語』より)

 賀相は三木に帰り、この評定のようすを城主・長治に伝えました。「・・・秀吉の態度はまことに無礼であった・・」と。

 この時、三木方は毛利氏に味方し、信長・秀吉方と戦うことが決定しました。

 加古川城のみは信長側につきましたが、他の近在の城主は三木方として信長と戦うことになりました。

*この評定は、加古川城で行われました。下図は加古川城近辺の小字名です。「城の開地」が城跡でしょう。『加古川市史(第二巻)』参照

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野口を歩く(17):西国街道

2012-10-10 00:03:47 |  ・加古川市野口町

西国街道

001 戦国時代が終わり、徳川幕府が全国を統一しました。

江戸を中心とする多くの、新しい政策が実施された。そのもっとも代表的なものは交通網の整備でした。

幕府は、江戸を起点として五街道を本街道とし、その他の主な道を脇街道としました。

山陽道は、江戸時代以前、都と九州の大宰府を結ぶ最も主要な「大路(たいろ)」でしたが、江戸時代に西国街道(中国街道)と呼ばれる脇街道となりました。

そのため、西国街道の維持管理は、幕府の政策にそったものでしたが、それぞれの大名にまかされました。

その分、姫路藩も自由に運営ができるようになりました。

「慶長播磨絵図」をみると、加古川の宿は、江戸時代の最初から宿駅の指定があったようです。

寛永12年(1635)に参勤交代の制度が確立すると、加古川の宿にも大名の宿泊施設である「本陣」が現在の寺家町におかれました。

また、旅行者の荷物を次の宿場まで運ぶ、人馬を提供する施設も整備されました。

    神戸元町商店街も西国街道

西国街道は、加古川町では、現在の本町・寺家町の商店街・平野、そして野口町の教信寺の前から土山を貫いています。

さらにこの道を東へ行くと神戸の元町商店街をぬけ、神戸大丸のある交差点からJR三ノ宮駅の南を通り、大阪・京都・江戸へと通じていました。

西は、長崎へと伸びていました。

教信寺・野口神社の前の道が西国街道であったことを示す標識が、教信寺の駐車場と山門の前に設置されています。

*『加古川市史(第二巻)』参照、写真は、教信寺の駐車場にある「旧西国街道」の標識

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野口を歩く(16):教信上人の墓所

2012-10-09 06:29:13 |  ・加古川市野口町

右の絵(写真上)をご覧ください。

盛り土の上に五輪塔が置かれています。

この絵は、大阪市平野区にある融通念仏宗の総本山、大念仏寺が所蔵する絵伝軸の一部です。

   教信寺法泉院の盛り土は教信所人の墓所か?

6dc0d9c3_2教信寺の踊念仏は、一遍が亡なった34年後の元亨三年(1323)、一遍上人の門弟・湛阿(たんあ)が、広く念仏者を集めて教信寺で7日間の念仏踊りを行いました。

これが、野口大念仏の始まりだといわれています。

この絵は、その湛阿(たんあ)が、野口念仏を開いた翌年、融通念仏宗の祖師の一人の法明が念仏聖らと教信上人の墓参りをした場面を描いています。

ということは、絵に描かれた五輪塔の置かれている盛り土は、教信上人の墓ということです。

教信寺の法泉院の中庭にある、こんもりとした盛り土(写真下)がそれだと伝えられています。

教信上人は、ここに葬られたのでしょうか。

Kyousinnji_029法泉院の中庭の盛り土は、長い年月を経て、現在形は少し崩れているもののその雰囲気を伝えています。

この盛り土には説明がないため、「教信の墓所かもしれない」ということに気づかれる方は多くないと思います。お参りの際はぜひお訪ねください。

盛り土の上に描かれている五輪塔は、現在の場所に置かれている五輪塔です。

   現在の教信上人供養塔

 現在の教信上人の五輪塔(供養塔)について、加古川市観光協会のHP「かこがわ探求記(ぶらり野口編)」で岩坂純一郎氏が次のように書かれていますのでお借りします。

「・・・お寺の山門を入り左手、鐘楼の奥に大きな五輪塔があります。教信上人の廟所と伝えられていますが、この五輪塔は花崗岩製で高さは2㍍を超えており、優美な姿を保つとともに兵庫県指定文化財であり歴史的にも価値が高いものです。

田岡香逸氏の研究によると、南北朝時代の築造であろうとされています。

ちょうどこの時代に湛阿が野口念仏を創始しており、五輪塔も湛阿が発願して賛同者を募り建立にあたったのではないかと私は推測しています。

湛阿は、師の一遍上人と同様に教信上人を篤く尊崇していたので、念仏信仰の布教と同時に教信上人の菩提供養を行ったのでしょう・・・」

*写真上:良人・法明両上人絵伝軸(大念仏寺所蔵)より

  写真下:教信寺法泉院に残る教信上人墓所

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野口を歩く(15):江戸時代の駕籠

2012-10-08 00:11:39 |  ・加古川市野口町

「シリーズ・野口を歩く」では、系統だった内容になっていませんご了承ください。

後日整理します。

今日は、教信寺法泉院の金ビカの駕籠の話です。

この駕籠について2006年の神戸新聞は、「江戸時代の駕籠修復」「往時の輝き今に」「漆や金メッキ、菊の御紋も」の見出しで大きく取り上げました。

今日は、その記事を紹介します

   江戸時代の駕籠修復

Kyousinnji_023駕籠は、江戸時代の中ごろの作とみられ、木製で高さ、幅約1㍍、奈川1.3㍍と大人一人が入れる大きさ。

4.5㍍の轅(ながえ)という棒を通し、六人の担ぎ手で運んだという。

駕籠は、当時の住職が刀田山鶴林寺(加古川市加古川町)や書写山円教寺(姫路市)等へ出向く際に使った。

寺の門前を通る山陽道で大名行列と遭遇しても“御紋”の威光は大きく、武士らが道を譲ったと伝えられている。

長谷川住職の先々代が、昭和初期まで利用していたが、交通手段の発達や担ぎ手不足で使われなくなった。

その後、納屋で保管されていたが、金具のさびや部材の痛みが目立つようになったため、今年(注:平成18年)一月、加古川市内の業者に修復を依頼。

漆や金メッキを塗り直し、まばゆいばかりの輝きを放っている。

加古川市文化財調査センターの宮本佳典学芸員は「規模の大きな寺で、現在も保管しているところはあるが、建物の改修とともに処分されるなど少なくなっている。

修復されて当時のようすをうかがい知ることができる貴重な資料」と話している。

(以上、「神戸新聞・東播版」より)

*写真:教信寺法泉院に保存されている駕籠

かつて天皇の勅願寺だったことをあらわす金色の「菊の御紋」が施されている。

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野口を歩く(14):駅ヶ池の堤は古代山陽道か?

2012-10-07 07:55:38 |  ・加古川市野口町

次の文は『加古のながれ』(加古川市史編さん室)からの引用です。

説明の前に図の「古大内遺跡」の場所を確認してください。

   

古大内遺跡は、賀古駅家(かこのうまや)跡

・・・加古川市野口町の古大内遺跡は、「賀古駅家」の跡として、全国的に認められるようになりました。

その北にある駅ヶ池の南岸から西進して加古川平野を横切り、現在のJR宝殿駅前あたりまでを直線で結ぶ道路の痕跡が見いだされました。

これがおよそ1300年前に設けられた古代山陽道で、幅は約20メートルもあります。

 このような広幅・直線道路は全国七道にわたって敷設され、その最大の幹線道路が古代山陽道で、当時の30里、後世の5里ごとに駅家が設置されました。

その一つが賀古駅家で、延喜式には駅馬40疋を常置したとありますから、日本一の大駅であったわけです。・・・(以上『加古のながれ』より)

    

     駅ヶ池の堤は古代山陽道か?

14119c88「賀古駅家(かこのうまや)」については、後日取り上げることにします。

きょうは、駅ヶ池(うまやがいけ)と古代山陽道について書いてみます。

ただし、研究者により証明されていません。内容についてはそのつもりでお読みください。

赤く塗った道が古代山陽道で、奈良時代に造られました。

駅池も奈良時代に造られて、市内では一番古い池です。

古代山陽道も駅ヶ池も共に奈良時代に造られました。

もちろん、このことは歴史的に証明されています。問題はここからです。

古代山陽道と駅ヶ池の位置関係をご覧ください。

駅池の南に沿って古代山陽道が走っています。

これは偶然でしょうか。

まず、古代山陽道が造られそれに伴い駅ヶ池が造られたと想像します。

駅ヶ池がある場所は、地形は西に低く、北と東が高く、水が集まる場所にあります。

当時の人は、ここに池を造り、水をため田畑を潤し、生活に利用することを考えたと思います。

池を造るための堤については、南と西に堤を防築けば池は完成します。

問題は、南の長い堤防です。

古代山陽道が駅ヶ池に沿っていることは、古代山陽道を駅池の南の堤防として利用したのではないかと想像するのです。

古代山陽道は道幅20㍍前後あったといいます。また冠水しないために一段高く造られたでしょうから立派な堤防の役割を果たすことができます。

整理します。

駅ヶ池の北と東は土地が高く堤防の必要ありません。

南は、古代山陽道が堤防の役割をはたした想像します。

とするなら、駅池の堤防は西の古大内遺跡と現在の国道2号線まで、あるいは、もう少し伸びて教信寺の手前あたりまで築けば事足りたのでしよう。

非常に経済的に造られた池と言えます。

いかがでしょうか。

*図:『加古川市史(第一巻)』より

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野口を歩く(13):印南野台地④・降水量

2012-10-06 08:06:53 |  ・加古川市野口町

印南野台地は水を貯めにくいジャリまじりの土からできています。

それに、水を集める範囲が狭いのです。

その上に、雨が少ない地域で、農業にとってまさに、三重苦を背負ったような地域です。

そのため、印南野台地の開発は、ずいぶん遅れました。

少し横道にそれますが、印南野台地に降る雨についてみておきます。

    印南野台地の降水量

Photo図で、兵庫県の年間降水量を確かめてください。

 平均降水量は、日本海側で多く20002250mmで、印南野台地付近は1250mm前後で、1000mmの開きがあります。

印南野は、きわめて雨の少ない地域となっています。

一月にいたっては、北部が250mmの降水量に対して、50mmと日本海側の1/4~1/5の程度の量しかありません。

兵庫県北部の冬の降水量は、もちろん雪です。

積もった雪は、地上に長くとどまり、徐々に土地に浸み込み、地下の水源となります。

この地下水が、灌漑用水として稲を育ててきました。

雪が、交通の妨げになり邪魔者扱いされるようになったのは最近のことです。

夏の降水量は、北部も瀬戸内地方もあまり大きな差はありません。

     苦難に立ち向かった人々

印南野台地には多くの多く溜池がありますが、水利権のために、水源からの水は、農閑期にしか溜池に引き、貯めることができませんでした。

雨が少ないことは、台地の農業にとって決定的な条件でした。

つまり、印南野台地は、地質的な、地形的な、そして少ない降水量と言う不利な条件の中で農業をいとまなければならなかったのです。

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野口を歩く(12):印南野台地③・海岸段丘

2012-10-05 07:42:52 |  ・加古川市野口町

印南野台地・海岸段丘

8fc6df5b野口の台地を南から北へ歩くことにします。

野口を流れる新井用水あたりの土地は急に高くなり、その後国道2号線あたりから更に高くなっています。

野口から東へ行くと別府町のイトーヨーカドーの西の道を北に道が伸びていますが、このあたりもよく似た地形であることが分かります。

この高くなった台地は山陽本線を越えたあたりで、水足の手前でいったん下がり、また更に高い台地となっています。

 何段かの東西に続く坂があります。これらの坂は海岸段丘です。

 野口・平岡・播磨町の地域は、大きく3つの段丘からなっています。

 この段丘は、気候変動によるものです。

 およそ24万年前、地球が暖かくなり、海が大きく陸地に押し寄せる大海進がありました。

 やがて氷期になり、海は大きく後退(海退)しました。

その後も地球は、温暖な時期と寒冷な時期を繰り返しました。

やがて氷河期が終わり、温暖な時期になると、海進があり海岸線で侵食作用が始まり、海蝕崖をつくります。

海面は平らなため、野口から平岡町辺りでは東西に続く侵蝕崖ができました。

寒冷期になります。海は再び遠くへ遠ざかります。この間も前号のブログで書いたように印南野台地は、少し隆起しています。

ですから、次の温暖な時期には南の海岸で新しく海蝕崖を作ります。

このようにして、印南野台地の周辺部では数個の段丘面が形成されました。

海蝕崖のあたりは、長い歴史の中で緩やかな坂になって残っています。 

 12,3万年頃にも大きな海進ありました。新井用水あたりは海底となり、土砂が堆積しました。

再び、氷期に入り、海底は陸地になりました。時期は約6・7万年前から1万年前の時期です。

この間に、峠池辺りの東西の一段高い段丘面が形成されました。

新井用水より北の土地は、この時形成された段丘面です。

そして、古代において新井用水辺りは海蝕崖は、海岸だったのです。

*図は『加古川市史(第四巻)』より(部分)

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野口を歩く(11):印南野台地②

2012-10-04 00:27:58 |  ・加古川市野口町

野口は海の底

 野口を流れる新井用水は、10㍍の等高線に沿っています。

*江戸時代に造られた新井用水については、後日取り上げます。

 だいたい新井用水から北、野口から東は明石川まで、そして美嚢川から南の範囲を印南野台地といっています。

 前号のブログで印南野台地をお確かめ下さい。

     教信寺あたりも海の底

Febb9661「印南野台地もかつて海の底であった」と言われて、信じることができますか。

答えは、確かに海の底だったのです。

それでは、印南野台地は、どのように形成されたのでしょう。

図を見てください。この図は245万年前ごろの海岸線・水際線(推定)です。(図は『加古川市史(第一巻)』より)

現在の印南野台地は海の底です。もちろん、新井用水から現在の海岸線までは当然海の底になります。

この海に川を中心として周辺から土砂が流れ込みました。

土砂は、海底では比較的平に堆積します。

今度は、印南野台地にあたる海底の部分の隆起がはじまりました。

そして、比較的平らな海底であった海底が徐々に地上に姿を現しました。

これが印南野台地です。

 印南の台地の隆起のようすは一様ではではなく、東の隆起が徐々に大きく、西の平岡・野口辺りでは小さな隆起でした。

現在でも印南野台地の隆起は続いています。

隆起の速度は、野口辺りでは年間0.125mmで、東の明石市魚住町辺りでは0.35mmとなっています。

印南野台地の誕生には、隆起作用の外に気候変動という、もう一つの要素が加わり特徴ある台地を作りあげています。

気候変動と印南野台地については、次号「印南野台地・③」で調べることにします。

 

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野口を歩く(10):印南野台地①

2012-10-03 00:06:18 |  ・加古川市野口町

少し話題を変えて、印南野台地の話をします。

野口の地形は、「新井(しんゆ)用水」をはさんで北が高く、南が低くなっています。(新井用水については、後で取り上げる予定)

新井用水は、海抜で約10㍍の等高線を流れています。

 ◇印南野台地(いなみのだいち)◇

Ac1cd4f6 しばらく野口の地形の話を続けます。

先の「野口を歩く・2(野口の地名)」の説明と重なりますが、「印南野台地①」とします。

・・・・

加古川の中心街を抜け、国道二号線を少し東へ行くと野口の手前で、ゆるやかな上り坂になっています。

その坂の下に広がる地域名も「坂元」です。

 その坂元の坂を登った所から台地は東へ明石川辺りまで、徐々に高くなる比較的平らな地形が続きます。

 この広大な台地は、印南野台地(いなみのだいち)と呼ばれてきました。

 野口から東に続く「平岡町」の名称は、平らな岡の上に発達した地域の意味から名づけられたのでしょう。

また、印南野の沖あいの海は、印南野の海と呼ばれ、西国と都を結び、陸・海ともに交通の要所でした。

そのためか、印南野(台地)については、『万葉集』にも多く詠まれ、『枕草子』にも登場します。

 しかし、水の極端に少なかった印南野台地の本格的な開拓が進むのは、江戸時代以降で、古代においての印南野は荒涼とした土地でした。

 再度、「野口」の地名について『播磨灘物語(司馬遼太郎)』から、次の文を紹介しておきます。

 野口は印南野の西の端にあって、多少の丘陵が起伏し、西からくる旅人にとっていかにも野の入り口といった地形をなすために、そういう地名が出来たのであろう。・・・

「野口」の地名のおこりは、印南「」台地の入り「」と説明しています。

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野口を歩く(9):教信の死

2012-10-02 07:55:20 |  ・加古川市野口町

教信『今昔物語集』に登場

『今昔物語(こじゃくもがたり)は、平安時代末期に成立したと考えられている説話集です。

集められた説話の数は千を越え、それもインド・中国地域からも集められています。インド・中国・日本は、平安時代では全世界を意味するものでした。つまり『今昔物語集』は、世界中から集められた説話集ということです。

私が、いま読んでいる本は『日本の古典を読む⑫・今昔物語集』(小学館)です。

この本は、専門書ではありません。一般の読者を対象に『今昔物語』から代表的な話を集め編集されています。

それに、「播磨国賀古駅(かこのうまや)の教信が往生すること」と教信の死が登場します。

教信は、平安時代でも、広く知られ尊敬を集めたお坊さんだったようです。

それでは、『今昔物語集』に登場する教信の話を読むことにします。

教信の死(『今昔物語集』より)

Kyousinn大阪の箕面市に、勝尾寺(かちおでら)があります。

勝尾寺のお坊さんの勝如(しょうにょ)は来る日も、くる日も一心に念仏を唱えていました。

ある夜、誰かが訪ねて来ました。しかし、勝如は無言の行の最中でした。

返事ができないので「ゴホン」と咳払いをしました。

すると、訪問者は「私は、加古の野口の里の教信と申すものです。

「私も一心に念仏を唱えてまいりましたが、今日願いのとおり、極楽浄土へお参りすることができました。

あなた様も、来年の今月今夜(8 15 日)に、お迎えがございます」そう言い終わると、訪問者の声はすっと消えたのです。

ビックリした勝如は、次の朝さっそく弟子の勝鑑(しょうかん)を野口の里へやりま

した。

すると、庵の前に死人が横たわり、犬や鳥が争って食っているのでした。

横にいる老婆に聞くと、「この死人は、私の夫の教信で、昨夜なくなりました。遺言で、自分の遺骸を鳥獣に施しているのでございます」と答えるのでした。

この話を聞いた勝如は、以後念仏ばかりでなく教信のように実践にも一層はげむようになりました。

そして、教信が告げた日(貞観9年8月15 日)に勝如は亡くなりました。

「勝如様も教信様のもとに行かれたのだろう・・・」と人々は、囁きあったということです。

*写真:教信上人の肖像(教信寺蔵・鎌倉時代の作)

最近の調査から初めから頭部だけの像として制作されていることが確認されました。

「教信の死に際して体は獣に施し、穏やかなお顔だけが残された」という伝承をから

制作された像なのでしょう。

*この文は、加古川市観光協会の「加古川探求記‐ぶらり野口編‐」に投稿したものの転載。

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