教信寺の木造地蔵菩薩立像(写真)について『信仰の美術(東播磨の聖たち)』(加古川総合文化センター)下記のように説明されています。
補足を加え、若干書き変えて紹介します。
教信寺に伝わる木造地蔵菩薩立像
一木造 像高 93・5センチ
平安時代末期~鎌倉初期(12~13世紀)
このお地蔵様は。教信寺本堂に向かって左に安置されています。
左手は宝珠を捧げ、右手に錫杖を握るいわゆる声聞形(しょうもんぎょう)の地蔵善薩立像です。
台座、宝珠、錫杖、ようらく等は後に補われています。
さらに、傷みの激しい部分を中心に、全身の表面は修理されています。
両手首から先、両足は別の材で、足柄は新しいもので補われています。
また、面部は修補により鼻線から口にかけてかなり手が入っているようです。
その他、全身に浅い鉈(なた)で彫ったような痕が見られます。
これらの修理は一見しては像容を大きく損ってはいません。
いわゆる平安時代末期から鎌倉時代初期の地蔵菩薩の姿をよく留めています。
野口城の攻防で持ち出された地蔵菩薩か?
教信寺の仏たちを語る時、必ず登場するのは「野口城の攻防」のことです。
この地蔵様も教信寺の寺伝に見える、羽柴秀吉の軍によって諸堂が灰燈に帰したとき持ち出された什物の中に、小野篁(たかむら)の手刻とされる地蔵菩蔭がありますが、本像がその地蔵菩薩であるとも考えられています。
<蛇足>
三木合戦では、加古川地方の寺社・諸城は三木方(毛利に味方した勢力)と信長・秀吉方に分かれて加古川市域でも激しい攻防がありました。
三木方(別所氏)に味方した寺社・諸城はことごとく炎上し、多くの宝物がこの時焼失しました。
鶴林寺には多くの宝物が残されていますが、一つの理由は、信長・秀吉側につき攻撃を受けず焼失を免れたためです。
教信寺は三木方(敗北側)につき秀吉・信長方軍の激しい攻撃を受け炎上し、多くの宝物は焼失してしまいました。