ある小説では、野口城は、攻められ炎上しました。
その時、二人の僧は教信上人のお像を運び出しことに成功しました。
そして、教信の像はもともと立像であったが、持ち出しに成功しましたが、傷みが激しく、今のような、お首だけの像になったとしています。
教信頭部像
・・・「胴から離したままのお首は、下の方がささくれて、あま、あまりも痛々しい。
その下の方を削り落して平らに均せば、億尾も安らかに座ろうしあんたの気持もおさまろう」
・・・
教信寺炎上の緊急のさなかに、胴から離された教信沙弥の首像は、折れた頸椎野部分が、柱のように突き出ていた。
それを切断しようとして春成(僧)の心は揺れ動いた。
「開祖の法躰(ほうたい)に手を懸けることがあって許されるでしょうか」
・・・
「お首だけの像」としてつくられる
教信のお首だけの像は、長い間そう信じられてきましたが、最近の調査の結果、もともお首だけの像として造られたことが分かりました。
『仏と神の美術(中世いなみ野文化財)』からお借りします。
・・・この像が、他の像の頭部を転用したものではなく、はじめから頭部の実の像として制作されたものであることがほぼ確かになった。
平知良(頸部の底にあった墨書銘)は地頭層などこの地域の中世の富裕者であったかも知れない。
また内部の修理銘によると、康正二年(1456)に快盛が願主となって修理された教信上人之御頭とされている。