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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新野辺を歩く(17):新野辺住吉神社③・篠部(シノベ)

2012-07-21 08:47:18 |  ・加古川市別府町新野辺

「新野辺を歩く(15)」の復習をしておきます。

   地名「シノベ」

002 ・・・新野辺はもともと、「シノベ」に「篠部」の文字を使っていました。

このふきんには篠竹(しのだけ)がしげり、かくれ住むには都合がよい場所でした。

 嘉吉の乱に負けた赤松一族のうちのある一族が、ここに隠れ住んだという話もあります。・・・(「新野辺を歩く・15」より)

新野辺はもともと「篠部」の文字が充てられていたようです。

そして、正保三年(1646)の播磨国知行高辻郷帳には新野部とあり、元禄十年(1702)の記録には新野辺と記されています。

このような記録から新野辺村の文字が使われるようになったのは、元禄時代前後だと思われます。

   篠竹の繁るところ

030「篠」は、「細くて小さな竹」のことで、新野辺の住吉神社が造られた室町時代の中ごろ、このあたりは篠竹で一面覆われた土地であったとする伝承は、案外真実ではなかったかと思われるのです。

というのは「ひろかずのブログ」では、新野辺住吉神社について書いてみたかったので、先日写真を撮りに出かけました。

住吉神社の写真をご覧ください。

いまは、だだっ広い空間に、小さな社がちょこんと鎮座しているだけの神社です。

往時の住吉神社については何も語ってくれません。

重い口をこじ開ける作業が必要のようです。

 ・・・・

昔は、現在のような宗教の薄い時代ではありません。村人は、自分たちの村ができると、まず氏神さんをつくりました。

神社が造られた場所は、伝承のマムシの話はともかく、篠竹が繁っていたのでしょう。

神社の周囲を歩きました。荒れているとはいえ、清掃は行われているようです。

でも、神社の後ろあたりは、篠竹が猛烈な勢いで芽を出していました。

このまま放置すると篠竹は根を広げ、あたり一面は篠竹で覆われてしまうことでしょう。

まさに篠部(シノベ)の原点を見た思いです。

新野辺は、伝承が言うように、まず篠竹を掘り起こすことから開拓がはじまったのでしょう。

*写真上:現在の新野辺住吉神社

 写真下:芽を伸ばす篠竹(神社の裏あたり)

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新野辺を歩く(16):新野辺住吉神社②・伝承「よの木」

2012-07-20 11:30:00 |  ・加古川市別府町新野辺

D113f23bよの木(エノキ)

 前号に引き続き、新野辺住吉神社の伝承です。

 昔、人々の足に「いしふ」という魚の目のようなものが、よくできました。

それができると、なかなかなおりませんでした。

ところが、新野辺の住吉神社けいだいにある「よの木」の根を「いしふかと思ったらよの木やった」と口ずさんでふむと、ふしぎなことに、たちまち「いしふ」がなおったのです。

そこで、「いしふ」ができた時は、おとなも子どもも「よの木」の根を踏みに出かけたそうです。

・・・・

 住吉神社の御神木が、「よの木」だといわれています。

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新野辺を歩く(15):新野辺住吉神社①・伝承、マムシと住吉神社

2012-07-20 11:10:06 |  ・加古川市別府町新野辺

 話題を変えて、新野辺の住吉神社の探訪に出かけます。

今、新野辺の住吉神社は「あれはて」て、昔の面影はありません。

でも、住吉神社は新野辺村の生活を見守り続けた大切な神社でした。

住吉神社に伝わる伝承の紹介からはじめましょう。

伝承:マムシと住吉神社

Aceff58f別府の新野辺(しのべ)には、こんな話が伝わっています。

 新野辺はもともと、「シノベ」に「篠部」の文字を使っていました。

 室町時代の中ごろのことです。

このふきんには篠竹(しのだけ)がしげり、かくれ住むには都合がよい場所でした。

 嘉吉の乱(嘉吉元年・1441、播磨の国の守護大名であった赤松満祐が、時の将軍足利義教を殺して播磨に逃げ帰り、のち戦いに敗れて赤松氏が滅亡した)に負けた赤松一族のうちのある一族が、ここに隠れ住んだという話もあります。

 江戸時代の少し前の頃です。

大こうずいがあり、田畑は土砂におおわれ、岡のようになってしまいました。

 大こうずいの後、草が茂り、マムシが住みつき村人は大変困っていました。

 村人は、神様に頼むことにしました。

いまの播磨町の住吉神社にお願いして造られたのが、新野辺の住吉神社です。

 そうすると、不思議なことに新野辺からマムシがいなくなり、米・麦などはよく実り、村人は住吉神社をますます信仰するようになったといいます。

 昔は、マムシが嫌ったという紺色(こんいろ)の服装で草取りに出かけたといわれています。

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新野辺を歩く(14):作間稼ぎ・出稼ぎ

2012-07-19 10:15:01 |  ・加古川市別府町新野辺

大坂酒屋の米踏かせぎへ

3bf1db28_2 (「新野辺村明細帳・寛延三年」より)

人数 1075人 

内男 544人

      女 531人

大工   24人

農具鍛治  3人

樽屋    1人

医者    1人

作間商人 22人

と、あり51人の職業が記録されています。

22人の作間商人は、味噌・タバコに売り、木綿小売りが6人、そのほか籠振りの零細な行商人がいたことが分かります。

次に、明細帳から右のか所を読んでおきます。

 (解読)

 男かせぎ耕作之間ニハ干鰯筵打申候、又冬春作間ニ大坂酒屋米踏挊ニ

 九拾人斗(ばかり)りも参り申候、尤五人組迄断参申候

*挊(かせぎ)

 1072aa30(意味)

 新野辺の百姓は農作業の合間に、干鰯(ほしか・農業のための肥料)の藁袋つくりに精を出しています。

そして、冬から春にかけての農閑期に大坂の酒屋に米踏作業に出かけます。

出稼ぎにあたっては五人組迄届けています。

女かせぎについては、「解読」だけを紹介しておきます。

 (解読)

 女稼耕作之間ニハ妻子共干鰯筵縄又ハ浜之宮松林落葉山守とかけわけ浜辺草芝薪かせぎ木綿かせぎ致申候者も御座候

 ここで注目したいのは、男かせぎで「90人ばかりが大坂の酒屋へ米踏稼ぎに出かけている」ことです。

 米踏と言うのですから、酒の仕込みの準備工程である精米作業(単純労働)のことと思われます。

大坂商人のツテで出稼ぎに行ったようです。

このように、農業だけでは生計が難しく、多くの新野辺村の百姓は、商をしたり、出稼ぎに出ています。

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新野辺を歩く(13):本百姓90軒・水呑137軒

2012-07-19 08:43:36 |  ・加古川市別府町新野辺

本百姓90軒・水呑137軒(新野辺村・寛延三年)

3d0b1f6a右の文書は、寛延三年(1750)の新野辺の明細帳の一部です。

 太字に注目ください。

 一 本百姓九拾軒

 一 水呑百姓百三拾七軒

 一 人数千七拾五人 内

         男 五百四拾四人

         女 五百三拾壱人

新野辺村の明細帳によれば、百姓家数227軒のうち本百姓(農地を持っている百姓)90軒、水呑(農地を持たない百姓)137軒と水呑の割合がおどろくほど多く、本百姓を大きくうわまわっています。

農業だけに頼れない

全国には、農業にたよらない他の仕事で書類上は水呑ではあるが裕福な生活の百姓がいます。

が、新野辺村の場合は、農地が少ないこと、汐風の害・水損・旱損の地であり農業にばかりたよれない条件がありました。

そのため、農業での収入を補うために新野辺村から多くの出稼ぎがあったことが明細帳(寛延三年・1750)から読み取ることができます。

次回の「新野辺を歩く」では、新野辺村の職業・出稼ぎについて調べてみることにします。

*文書の二行目に小さく、右に「姓」そして左に「百」の文字の書き込みがあります。書き忘れたか写し間違いのために後から書き入れたものです。

このような例は「写」や「下書き」の文書の中に時々見られます。うっかり書き間違ってしてしまったのでしょう。

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新野辺を歩く(12):毛見法の村

2012-07-18 08:21:15 |  ・加古川市別府町新野辺

9ad6b43c前号(新野辺を歩く・11)で「新野辺村は汐風・水不足それに砂地で、農業に適した土地とはいえません。

そのため、新野辺村の人たちは、それら三重苦を補うため、たくましく他の方法に生活の糧を見つけました。

どんな方法だったのでしょう」と書きました。

その方法については、後に紹介します。

もう少し、前号につけくわえておきます。

毛見法(検見法)の村

年貢の算出方法には、定免法(じょうめんほう)と毛見法(けみほう)があります。

聞きなれない言葉ですが、定免法とは、稲作のできぐあいにかかわらず、一定の税率で年貢を徴収する方法です。

例えば、「五ツ」とは、収穫の五割を年貢として藩に納めました。

この方法は藩の収入が確定し、事務も簡単で、役人の不正も少ないのですが、不作の年には農民の負担が大きく、生活が成り立たないという欠点を持っています。

一方、毛見法(検見法とも書く)は、毎年稲作のできぐあいを見て税率を決める方法です。

毛見法は事務手続きが複雑になり、そのうえに汚職の原因にもなりかねません。

一般的に享保のころ(171636)から幕府領を中心に「水損・干損」の少ないところ、つまり、生産の安定した村々から定免法を実施し年貢を徴収しました。

新野辺村の明細帳(寛延三年・1750)には、次のようにかかれています。

一、 御検見取ニ而御座候

      (おんけみどりにてござそうろう)

新野辺村は、旱魃に弱く、汐風の集落で、おまけに砂地で地味はやせていました。

新野辺村は、農業収入の安定した集落ではなかったのです。

そのため、年貢は検見法が採用されるようになりました。

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新野辺を歩く(11):風損・水損の村

2012-07-18 08:03:27 |  ・加古川市別府町新野辺

   風損の村・水損の村

 566b6a04_2 新野辺村は、海辺の村で汐風の害、旱害の多いところでした。

 寛延三年(1750)当時の新野辺村の風景を想像してみましょう。

神戸製鋼のある場所は、金沢新田ですが、寛延三年(1750)当時金沢新田はまだありませんでした。

松林がひろがり、汐風を防いでいましたが、浜街道のすぐ南は海であり、汐風は大きな影響がありました。

 新野辺に残る古い記録(明細帳)によると、右のように書いてあります。「解読」のか所は読み飛ばしてください。

 (解読)

一、当村田畑之儀海辺ニ而御座候ニ付汐風吹上ケ風損多ク

場所ニ御座候田地之儀ハ第一水損場ニ而御座候

意味は、「新野辺村の田畑は、海辺に近く潮風が吹き上げ、風の害も多い所で、そして、田の水が得にくい場所です。

 新野辺村は水の少ない地です。

    三重苦の村

整理しておきます。

新野辺は、浜辺の村で汐風が強く、水の少ない地域でしばしば旱害にみまわれました。

それに、以前に書いたように、土地は砂地です。

汐風・水不足それに砂地であれば、農業に適した土地とはいえません。

そのため、新野辺村の人たちは、それら三重苦を補うため、たくましく他の方法に生活の糧を見つけました。

どんな方法だったのでしょう。

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新野辺を歩く(10):浜ノ宮天神社③・元宮は十五社大神社

2012-07-17 10:33:42 |  ・加古川市別府町新野辺

002九州の大宰府に着いた菅原遣真は、延喜3年(903)、失意のうちに大宰府で亡くなりました。59才の人生でした。

道真の死後、京都では天変地異がしきりに起きました。

旱天・流星・大地震、そして疫病などが続き、貴族たちは道真の怨霊が京の空に舞い戻って来たのではないかと噂し、動揺ははなはだしいものがありました。

このため、朝廷は神社を建立して道真の霊を慰めようとしました。

浜ノ宮天神社の元宮は十五社大神社

それを伝え聞いた里入たちは、ゆかりの十五社の境内に天満宮をまつり、道真をお祀りしました。

008_2その後、室町時代に、十五社の神主の夢枕に神様が現われ「昔、筑紫に下るとき、尾上の東の松林の中にしばし休息したが、この地に私のお宮を建てよ・・・・」と。

神主は、そこまではっきり闇いて、たちまち夢からさめました。

そこで、さっそく浜の松林に出かけて見ると、松の木がうっそうと生い茂った中に、夢の中と同じ風景の場所がありました。

あれからもう数百年も経っているのに、そこはきれいで、神々しい場所でした。

神主は、これは天満天神のご威光であって、たいへんありがたいことだと思い、宮殿を造営し、文安元年(1444)831、十五社の宮より神様を新殿に移したてまつりました。

これより、この浜の松林の中にある宮を浜ノ宮天神社と称することになりました。

そして、安田にある十五社の社を上の宮というようになりました。

神社の伝承(神社の移動)については、もう少し調べてみたい。

*『郷土のおはなしと歌』((加古川市教育委員会)参照

*写真上:浜ノ宮天神社 下:現在の霊松

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新野辺を歩く(9):浜ノ宮天神社②・伝承、お手植えの松

2012-07-17 08:22:09 |  ・加古川市別府町新野辺

お手植えの松

 50fcc68c浜ノ宮天神社の伝承です。

延喜元年(えんぎがんねん・901)、正月の下旬の頃です。

右大臣という位の高い菅原道真(すがはらのみちざね)が、藤原氏のはかりごとのため、筑紫(今の福岡県)の大宰府(だざいふ)に流される途中、新野辺の沖を航海されていたときでした。

空が急に暗くなり、海上は大しけとなりました。

そこで船を浜に着け、松林に避難されました。

そして、安田の十五社大神と尾上の住吉神神社(尾上神社)に航海の安全を祈られました。

しばらくすると、ふしぎと急に風雨がやみ、海上が静かになり、ふたたび九州に向かわれました。

そのとき、菅原道真は、松の根を上にして逆にして植えられました。

しかし、ふしぎやふしぎ、その松はぐんぐん大きくなり、村人を驚かせたということです。

浜ノ宮天神社の拝殿(はいでん)の西にある松が、その松であるといいます。

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新野辺を歩く(8):浜ノ宮天神社①・十五社大神

2012-07-16 12:40:59 |  ・加古川市別府町新野辺

401平安時代のことです。菅原道真は、藤原氏との権力闘争に敗れ、九州の大宰府に流されました。

浜ノ宮天神社に、この時嵐を避けるために菅原道真が立ち寄ったとの伝承が語り継がれています。

また、神社の始まりについても、次のような伝承をえています。

きょうは、浜ノ宮天神社の始まりについての話です。この話は、伝承ですが史実も含まれているようです。

   十五社大神社

平安時代の貞観九年(868)のことでした。

近隣の村々で、牛の病気が大流行をし、数多の牛がたおれました。

また、春になっても霜が降ったり、長雨が統いて、晴天を見ることがほとんどありませんでした。

村人たちは、秋の稔りを心配しました。

このとき、このあたりを治めるひとりの役人が、次の15杜の神々(伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大神・大和・広瀬・龍田・住吉・丹生・貴布弥・石上)にお供え物をしてまつり、天候の回復を祈願しました。

399そうするとどうしたことか、雨がやんで天気が回復しました。

その年の秋には、作物が大いに稔り、村人々は大喜びしました。

そして、安田に神社をつくり、翌年の春に十五社の神々をお迎えしておまつりをしました。

そして、神社の名前も「十五杜大神社」としました。

その御毎年、村人たちは、11月のはじめの卯の日に、その年に収穫したお米を十五社の神々にお供えしました。

 十五社大神社は、明姫幹線と別府川の交差点からすぐ北の葬儀場のすぐ西の森に鎮座します。

 伝承では浜ノ宮天神社は、安田の十五社大神社から口里へ移動したようです。

 十五社大神社についての伝承を続けます。

*写真:十五社大神社(安田)

*『郷土のおはなしと歌』(加古川市教育委員会)参照

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新野辺を歩く(7):新野辺は尾の上

2012-07-16 06:37:40 |  ・加古川市別府町新野辺

土地は砂地

8b5e13f0_2新野辺の明細帳(寛延三年・1750)に右のような記述があります。

新野辺の隣の尾上地区も状況は同じでした。

古文書に慣れていない方も多いと思います。 念のため解読と文意を記しておきます。

 (解読)

 一 田畑共土地ハ砂地ニ而御座候

   (田畑とも土地は砂地にてござそうろう)

(文意)

田畑はともに砂地です

 

「新野辺(尾上)村の土地は砂地で、作物の栽培に適していない」とあります。

尾上の名称について書いておきます。

   新野辺は尾の上(おのうえ)

Cd61e8ba大昔の話から始めます。今から1万年前の頃、地球は現在とほとんど変わらない温暖な気候となりました。

暖かい気候になると加古川の水量も増え、加古川は土砂を大量に河口に運び堆積させ陸地をつくりました。

もう一つの要素を考えます。

河口あたりの海の流れです。

加古川の河口辺りでは海流は西から東へと流れています。

土砂は、この海流に運ばれ主に東の方に尾のような土地をつくりました。

つまり、尾上・新野辺あたりは加古川が運こんだ土砂がつもってできた土地です。

尾上地区は、海流によりつくられたっぽのような土砂のにできた集落という意味です。

ですから尾上・新野辺地区は、汐風の害・水の少ない土地でした。

その上に、砂地です。

まさに三重苦の土地でした。 

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新野辺を歩く(6):古代の新野辺は海の底

2012-07-15 19:55:01 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺は海の底

 114 地図の太い線は、10㍍の高さの所を結んだ線です。

 そのあたりは、急な坂になっています。

 10メートルより低い別府町や加古川町あたりは、古くは「加古の入江」とよばれた海の底でした。

 奈良時代の歌集・万葉集(まんようしゅう)に、次の歌があります。

作者は柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)です。

稲日野(いなびの)も ゆきす過ぎがてに 思えれば 

    心恋しき 可古(かこ)の島見ゆ

 (広々とした加古川近くの海を航行していると、いろいろなことが思い出される。やがて、なつかしい加古の島が見えだした)

 この歌の「加古の島(かこのしま)」は、加古川の土砂でできた三角州であろうと言われています。

 10㍍の等高線より南の地図の黒い点は、弥生遺跡(今から2000ほど前)で、河口部分(別府町・尾上町・加古川町)から弥生遺跡より以前の遺跡(いせき)は見つかっていません。

 このことは、このあたりに人が住めるほどの陸になるのは弥生時代以後であり、それ以前の新野辺あたりは海の底だったのです。

 奈良時代でも、新野辺あたりは人の住めるような状態(じょうたい)ではなかったと想像されます。

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新野辺を歩く(5):別府村新野辺に・・・

2012-07-15 07:57:13 |  ・加古川市別府町新野辺

別府村新野辺

図をご覧ください。

別府町です。

別府町は、現在、新野辺・別府そして西脇で別府町をつくっています。

別府村新野辺誕生(明治2241日)

 Befu_016江戸時代、この地に別府村、新野辺村(しのべむら)そして西脇村がありました。

 これら3ヵ村は、明治2241日、新しい町村制により合併して加古郡別府村となりました。

 ですから、この時、別府村新野辺となり、「新野辺村」の名称はなくなりました。

 しかし、その後も人々は、今までの習慣で「別府村新野辺」を「新野辺村」と呼んでいました。

 なお、江戸時代、西脇村は現在の播磨町の古宮組に属していたが、生活は別府村との結びつきが強くなっていました。

そのため、明治22年、西脇は別府村に合併しました。

 別府村は、昭和3115日、加古郡別府町なり、さらに、昭和26101日加古川市と合併し現代に至っています。

 なお、昭和45325日、海岸埋め立てに伴い金沢町が分離独立しました。

*『兵庫県市町村合併史(上)』(兵庫県総務部地方課編集)参照

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新野辺を歩く(4):勧善之堂

2012-07-14 20:25:59 |  ・加古川市別府町新野辺

大庄屋・大歳吉左衛門

江戸時代、加古川地方は、儒学(じゅがく)をはじめ学問のさかんな所でした。

 まず、『播磨鑑(はりまかがみ)』の著者、平野庸脩(ひらのようしゅう)をあげることができます。

 また、郷里の人々の教育に心を注いだ人として、寺家町に清田藍卿(きよたらんけい)や志方町野尻(のじり)で玉田黙翁(たまだもくおう)は、学問所を開いていました。

   藩主より直筆の書「勧善之堂」を賜る

 Img_0989_2別府の新野辺では、寛成年間(17891801)に大庄屋の大歳吉左衛門は、当時の庄屋・梅谷氏と共に月に二・三度、村人を集めて読書・算術そして、人の生き方などを説きました。

 これに対して、大歳吉左衛門は藩主・酒井侯より「四郎三郎」の名前と、藩主直筆の「勧善之堂(かんぜんのどう)」という額などを賜っています。

 吉左衛門は、明和二年(1782)新野辺に生まれ、天保十二年(1841)五月、60才の生涯を終えました。

 法名は勧善堂源進翁居士。

 *写真:藩主・酒井雅楽頭より賜った直筆の書「勧善之堂」(軸)

 現在、大歳家は公開されていません。写真は、ある見学会の時に撮ったもの

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新野辺を歩く(3):新野辺組

2012-07-14 07:18:03 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺組(大庄屋・大歳家が支配する村)

4e9f0937江戸時代、各村には村を治める大庄屋がおかれました。

 大庄屋は、それらの庄屋をまとめる庄屋のことです。

 庄屋の中の庄屋で、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいます。

そして、その組の名は、ふつう大庄屋の住んでいる村名で呼ばれました。

ですから、大歳家のおさめる村々は、「新野辺組」でした。

図をご覧ください。

新野辺組は、天保9~明治4年(183871)、新野辺村の他11ヶ村(北在家・植田・備後・別府・口里・長田・今福・養田・池田・小松原・高砂・荒井)と2新田からなる組でした。

 各村におかれた庄屋とちがい、大庄屋は苗字・帯刀をゆるされ、農民の代表というより、藩(姫路藩)のお役人のようで、各組の庄屋への連絡、村々から領主への取次ぎ・年貢や組の争の解決などの多くの仕事がありました。

 文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格となり、そして天保9(1838)大歳藤家は、新野辺組の大庄屋となりました。

 なお、現在の別府町西脇は、新野辺組ではなく古宮組(現在の播磨町)に属していました。

なお、大歳家には地域を知る貴重な文書(大歳家文書)が多数保存されていることでも知られています。

 *図:枠で囲んだ村は、新野辺組の村々と新田(図はクリックすると拡大します)

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