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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新野辺を歩く(47):五ヶ井用水⑦・新野辺村と長砂村の水争い

2012-08-18 06:44:41 |  ・加古川市別府町新野辺

「新野辺を歩く(45)」で、延宝四年に起きた長砂との水争いを紹介しましたが、同じ様な水争いは、しばしばありました。

寛政九年(1797)にも新野辺村と長砂村の水争いがおきました。

そのようすを、『加古川市史(第二巻)』(p489)に見ておきます。

  長砂村と新野辺村の水争い

Cd42e2d長砂村のいい分は次のようでした。そして、新野辺村を相手取って姫路藩に訴え出ました。

「・・・五ケ井用水の余り水を受けている長砂村の者が、日照りで水が入りにくくなったため、認められている余り水を受けている水筋の取水口から桶・抱え桶・踏車・龍骨車などで、水をかえ取り長砂村の田地に水を入れただけでした。

そこへ、新野辺村から庄屋以下大勢の人足がやって来て悪口をはきながら熊手やとび口・唐鍬などで寵骨車などの道具を破壊し、さらに村の者をなぐる等の争いになりました」と。

この訴えをうけた新野辺村は、次のように答えています。

「・・・長砂村が(認められた)川筋だといっているのは、新野辺村への五ケ井用水の川筋で、安田村から坂井村まで達する川のうちの、長砂村と新野辺村の境を流れる溝の事です。

番水の立て札を立てるために10人が出向いたところ、長砂村の者が水をかえ取っているので中止させたのです。

新野辺村が水をとっている取水口の上手南側の新野辺村壱丁田に堰が二つあり、そこから長砂村の田65(87枚とも)、高1059斗余に余水を流している。

そのため、年々ニヵ所に堰をするときには長砂村から人足2人が出、俵20を出している。長砂村の訴えは心得違いである」と返答しまた。

   新野辺村の主張が認められる

この水争いは、新野辺村の主張が全面的に認められ、長砂村に次の条件を確認する一札を入れました。

  長砂村の105石余の田地への水については、新野辺村の指図に従い、余水をもらうので、水料として米6升を渡す。

  壱丁田にある両堰をするさいには、長砂村は人足二人、明き俵20表差し出す。

  水入れの世話料として米一斗を新野辺村に渡す。

  今後は、取水口の用水について新野辺に差しさわりになるようなことはしない。

 *図:踏車(『加古川市・第二巻』より)

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新野辺を歩く(46):五ヶ井用水⑥・干ばつ後、大雨

2012-08-17 16:34:33 |  ・加古川市別府町新野辺

一転して大雨に(寛政元年・1789)

前号の続きで、旱魃の後日談です。

今回の話題は「五ヶ井用水」と関係ないのですが、続きとしておきます。

寛政元年の旱魃は、とにかくすごいものでした。当然のように雨乞いが行われました。

新野辺村では68日日(太陽暦:630日)三夜続きで半鐘、太鼓、ほら貝を鳴らし、棒や杭で作った松明を持っての行列でした。

610日にはやっと雨となりました。

旱魃が一転して大雨に(寛政元年・1789)

4178c472『今里傳兵衛と新井の歴史』(新井水利組合連合会)に、後日談があるのでおかりします。

ひにくにも、雨乞いの後、日照続きが一転して大水となりました。

「・・・・少し遅れの田植をやっと済ませた4日後の79日(太陽暦)の夕方から大雨となり、翌朝までに大樋に一尺もの水がたまったほどでした。

別府川堤防にあがって川上を見ると、一面池のようになっていました。

村役人たちは相談のうえ、緊急措置として高潮の流入を防ぐ「ウテミ」を切放ちました。

村中男一人残らず人足を出してのことです。

10日朝、近くの村々から急を知らせる早鐘、早太鼓、ほら貝が鳴り渡ったので、若者四人を養田へ遣わしました。

途中、船に乗って養田・長田へ渡り、刀田山(鶴林寺)へ行ったところ、今福、安田、尾上神社の一帯は、みんな池のようになっていました。

その光景に肝を冷やして帰ってきました」(大歳家文書より意訳)

以上の文章は、『今里傳兵衛と新井の歴史』からお借りしました。(少し文体を変えています)

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新野辺を歩く(45):五ヶ井用水⑤・雨乞い、そして水争い

2012-08-17 09:17:58 |  ・加古川市別府町新野辺

 下流の村・新野辺

Fd58cb38五ヶ井用水は加古川を水源にもつだけに、水量は豊かで、よほどの早魅でないかぎり水は十分にありました。

五ケ井郷の上流の村々では、水争いが起きた事例はほとんど史料に表れていません。

しかし、五ケ井郷の下流の村々では若干事情が異なります。しばしば水争いが発生しています。

五ケ井郷の村々の旱魃や水争いについて少し述べておきます。

延宝四年(1676)の大干ばつでは、五ケ井郷においても田植えができなかったことが史料にみえます。

また、寛政元年(1789)の旱魃もひどく、新野辺村でも田植えが遅れました。

523日の早朝から樋を抜いて水を別府村へ送り、暮れには堰止め、新野辺村は24日に井溝筋付近から植え付を始めました。

しかし、その頃から五ケ井の水が減じ、新野辺村まで下ってこなくなり、井溝の水を何度もかえあげ田植えを続けています。

たまたま、安田・長田・口里村では麦の取入れが遅れ、まだ田植えにかかっていなかったため、3力村に下った五ケ井の水は、いたずらに加古川へ抜き落とされていました。

そこで、新野辺村は口里村に交渉して水をかえあげさせてもらい、田植えの用水に当てることができました。

   雨乞い、そして水争い

このような事態に、2729日の間平松(現在の加古川大堰の東詰)で、雨乞いの祈禱を行ないました。

鶴林寺は高砂組の村々(新野辺は当時高砂組)の依頼で2426日に雨乞いの祈禱を行なったし、62日・3日には浜ノ宮天神社でも行なわれました。

しかし、雨はほとんど降らず、5月末の段階で新野辺村の田521反余の内35町余は、なんとか田植えがでたのですが、165反9畝余りはできませんでした。

63日のことでした。

五ケ井の水は、少しばかり新野辺村の手前まで流れ下ってきました。

が、それを上手の長砂村が竜骨車(揚水機)で水を汲みあげ、新野辺村に下らなくなり、新野辺村は長砂村に抗議しました。このため、長砂村では竜骨車の使用を止めました。

その後、68日ごろ遅れて田植えにかかった口里村等も水不足となりました。

そのときは、新野辺村は字壱丁田の溝口堰の水を落として口里村に水を回しています。

*『五ヶ井土地改良区誌』(五ヶ井土地改良区誌編さん委員会)参照

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新野辺を歩く(44):五ヶ井用水④・五ヶ井用水の成立は戦国時代か?

2012-08-16 07:14:07 |  ・加古川市別府町新野辺

 きょうも、新野辺村が登場しません。五ヶ井用水の成立した時代を考えます。

五ヶ井用水の成立は戦国時代か?

024 五ヶ井用水は古い歴史を持っています。

 加古川下流の左岸(東岸)は、右岸(西岸)と比べて、流れがゆるやかで早くから安定し、聖徳太子の伝承が引き合いにだされるほど古いのです。

 先に述べたように、奈良時代には、条里制が発達し、加古川の旧流路を利用して「五ヶ井溝」が使われていたようです。

 また、「五ヶ井用水」は、北条郷・加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄という四つの地域と一つの集落の用水であるところから付けられた名称です。

 これらの名称からも推測できるのですが溝は古くからありました。

 が、五ヶ井郷が一体の井組として成立したのは郷村制の解体しきっていない時代、つまり室町時代(戦国時代)のことと考えられます。

 というのは、庄という名称から荘園が盛んな平安時代に「五ヶ井郷」という井組が成立したと想像できるのですが、次のような理由からも戦国時代ではなかろうかと推測されます。

    加古川は暴れ川

 加古川は大河であり暴れ川でした。古代より幾度となく洪水を引きおこしています。

 こんな大河の締め切り工事をし、洪水の時にも崩れない堤や樋門を築き、大川から安定して取水できるようになるのは、技術の進歩を待って後のことです。

 すなわち、これらの土木技術の発達は戦国時代をまたねばなりません。

 戦国時代を生きぬいた人は、優れた武人であると同時に、すぐれた治水土木家でした。

 それに、五ヶ井用水は多くの村々を貫く大きな用水路でした。

 これらの用水を一体のものとして利用するには、利害の対立する地域一帯を支配する領主の出現を待たなければなりません。

 天正六年(1578)三木城は、秀吉軍に敗れましたが当時、加古郡は三木城の支配下にありました。

 その後、江戸時代は戦争のない平和な時代であり、江戸時代の初めの頃、戦国時代に発達した土木技術が農業に転用され、一大農業開発の時代を迎えました。

 今日の農村の原風景は、江戸時代のはじめのころにつくられました。

*写真:加古川大橋の東詰の五ヶ井用水の取り入れ口(右:五ヶ井用水、左:新井用水)

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新野辺を歩く(43):五ヶ井用水③・五ヶ井用水と加古川旧流路

2012-08-15 08:13:49 |  ・加古川市別府町新野辺

 きょうの話題に新野辺村は登場しません。新野辺村の五ヶ井用水の説明のまえに五ヶ井用水の歴史を見ておきます。

聖徳太子と五ヶ井用水

 『日本書紀』に次のような記述があります。

 「(今から1300年以上も前のことである)聖徳太子は、叔母の33代の推古天皇のために法華経等を講義された。この講義に推古天皇は、おおいに感動され、その労をねぎらうため、播磨の国の良田を聖徳太子に与えた。太子は、これを播磨に分け法隆寺の荘園とした・・・」

 その土地は、揖保郡太子町の斑鳩寺(はんきゅうじ)あたりで、法隆寺領荘園鵤荘(いかるがしょう)だというのが大方の説です。

 太子町の班鳩寺は、この荘園の管理と信仰の中心として11世紀ごろに創建されました。

 一方、鶴林寺ですが、『鶴林寺縁起』はともかく、建築様式などから鶴林寺は平安時代初期の創建と考えられます。

 五ヶ井用水と聖徳太子のつながりは考えにくいのです。

条里制と五ヶ井の水路

 26d3efeb奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。

 地方には国司・里長等の地方官が置かれました。これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることにありました。

 政府は、税を確実にするために土地制度を整えました。これが条里制です。

 条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。 

 条里制の土地があったことは確かめられています。しかし、土地だけでは田畑になりません。水が必要です。

 考えられることは、加古川の水を利用することです。

 加古川は、暴れ川でした。加古川に堰をつくり、堰から溝に水を引いたとも考えられません。

 この時代に大規模な堰・用水路を造る土木技術はまだありません。

 加古川は、太古よりその流路を変えています。加古川の旧流路(図の黒く塗りつぶした部分)を見てください。

 これらの加古川の旧流路と五ヶ井用水の遺構がたぶんに重なるのです。

 つまり、条里制の土地は加古川の旧流路を用水路として手を加え利用したと考えるのが自然のようです。

 五ヶ井用水の始まりは条里制の時代(奈良時代)にまで、さかのぼることができると想像されます。

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新野辺を歩く(42):五ヶ井用水②・新野辺は最下流の村

2012-08-14 09:23:36 |  ・加古川市別府町新野辺

五ヶ井郷の村々

 江戸時代、五ヶ井用水を利用する村(五ヶ井郷)は20ヶ村で、五ヶ井用水は1.1900石ほどの田畑を灌漑していました。

   どうして「五ヶ井用水」?

 五ヶ井用水は、四つの地域と一村(今福村)に水を供給している用水という意味で「五ヶ井用水」と呼ばれました。

 その地域と一村は、①北条之郷、②加古之庄、③岸南之庄、④長田之庄、それに⑤今福之庄の五つの地域です。

 それでは、次にその地域に含まれる村々を『加古川市歴史(第二巻)』(p254)からみておきます。

① 北条之郷

 B5d1c14d大野村・大野新村・中津村・平野村・河原村・溝ノ口村・間形村・篠原村・寺家町

  *大野新村と間形村は、明治22年合併して美乃利村となりました。

 ② 加古之庄

 北在家村・安田村・長田村・口里村・新野辺村

 ③ 岸南之庄

 加古川村・木村・友沢村

 *加古川村は、現在の加古川町本町です。

 ④ 長田之庄

 粟津村・植田村・備後村

 *植田村は、現在北在家に含まれています。

 ⑤ 今福之庄

 今福村

 これらの地域名の郷・庄は荘園の時代にさかのぼる古い名称です。

ここにあげた五ヶ井郷の村々を地図で確かめてください。新野辺村は一番下流端の村です。

 新野辺村に水が流れてくるのは一番遅く、水が少ないこともしばしばでした。

☆「ひろかずのブログ」が、今日で1800号になりました。

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新野辺を歩く(41):五ヶ井用水①・五ヶ井郷

2012-08-13 08:25:38 |  ・加古川市別府町新野辺

Ce1834b9  新野辺村は、海岸地域の村で風損・水損の村でした。

 特に、農業にとって一番大切な水との戦いの歴史でした。

 新野辺村の主な水源は「五ヶ井用水(ごかいようすい)」です。

そのため、少し廻り道になりますが、五ヶ井用水について調べることにします。

赤く彩色した①の地域が「五ヵ井用水」による灌漑地域です。

「五ヶ井郷」と呼ばれています。

(②の地域は、五ヶ井用水から分水した新井用水により灌漑されている地域です)

 五ヶ井用水

 加古川は、丹波市青垣の遠坂(とうさか)付近を源流に、播磨灘に注ぐ兵庫県一の河川です。

 その幹線流路は96kmであり、兵庫県に降った雨の約4分の1は加古川に流れ込み、流域面積は1732平方キロメートルで、県下では最大の河川です。

 また、加古川は暴れ川でした。

古代より幾度となく洪水をひきおこし、流路を変えています。

流域の人々は、そんな大河と闘い、加古川から田畑に水を引き、田畑をつくりあげました。

新野辺村も、そんな村の一つです。

加古川からの用水は「五ヶ井用水」と呼ばれました。

 五ヶ井用水は、近世の村で言うと20ヵ村で、11900石ほどの田地を灌漑するとてつもない大きな用水でした。

 *図:『加古川の流れ(建設省近畿地方建設局姫路工事事務所)』(1975)参照

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新野辺を歩く(40):(伝承)上人山(しょうにんやま)

2012-08-12 06:40:31 |  ・加古川市別府町新野辺

 新野辺の海岸の風景はずいぶん変わりました。

 むかしは、松林がどこまでも続く美しい海岸でした。この海辺の松林に次のような伝承が残っています。

上人山(しょうにんやま)

Befu_031  むかし、浜ノ宮中学校のから南いったいは、松林でおおわれた砂丘(さきゅう)で、人々から上人山(しょうにんやま)と呼ばれていました。

 林の中の小高い砂丘に五輪塔がありました。

 ・・・・

 上人さんと呼ばれた坊さんが住んでいました。

 坊さんは、自分の死が近づいたことを悟ったとき、「私は生きたまま成仏したい。私の打つ鐘の音が聞こえなくなったら、成仏したと思ってもらいたい」といい残し、少しばかりの食料と水を持って、鐘を打ちながら土にうもれながら最後の念仏を唱えていました。

 それから四十日ほどがたち、鐘の音が聞こえなくなりました。

 坊さんは、亡くなりました。

その場所に塚と五輪塔(ごりんとう)を建てました。

 上人山の塚や五輪塔にさわると、頭が痛くなったり気分が悪くなったので、たたりを恐れて誰も手を触れなかったといいます。

 ・・・・・

 第二次戦争後、このあたりは開発が進み住宅地となりました。

 その時、塚は削り取られ五輪塔(写真)だけが残されました。

 現在、民家(大田邸)の庭の奥にありますが、元はもう少し西あったとも言われています。

*室町時代中期の五輪塔です。

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新野辺を歩く(39):一銭講林

2012-08-11 00:25:35 |  ・加古川市別府町新野辺

金沢新田と一銭講林

Bd2cf203天保五年(1834)、新野辺村から岩崎新田・千代新田に続き、金沢新田の開発の願いが出されました。

場所は、「新野辺を歩く(33)」の図をご覧ください。

千代新田の潮留東堤から東へ別府村の川口に及ぶ広大な新田です。

そこは、遠浅とはいえ海を埋め立てて新田にするのですから、潮留堤を築くだけでなく、莫大な量の土砂が必要となります。

その土取り場となったのが一銭講林でした。

そこは、もともとは池田村の土地で、池田村では文化十四年(1817)に地ならしをして、潮留堤を築き松苗を植えていました。

その松が成育して林になったので一銭講林と呼ばれました。

天保五年(1834)、この松を伐り取り、そこの土を新田の土とすることで金沢新田の開発の見通しが立ち、開発願いが出されたのです。

新田は、天保八年(1837)に完成し、天保十一年(1840)に検地をうけました。

田畑42742625厘・427334合の金沢新田の完成です。

開発発願人は、砂部村・九郎兵衛と高砂の嘉兵衛でしたが、実際のスポンサーは加東郡市場太郎太夫村(たろうだゆうむら)の大金持ちの近藤亀蔵でした。

亀蔵は、姫路藩領からいえば、他領(小野藩)の者であるため、近藤と関係のあった九郎兵衛門、嘉兵衛が発願人となりました。

   一銭講林は新野辺村の土地に!

先に述べたように「一銭講林」の地は池田村の畑地先の潮留堤防の内にできた土地でした。

その東半分は、村から遠いので松苗を植え、空き地のまま放置されていました。

新野辺村が、そこに目をつけ、松の木を植えさせてもらいたいと池田村にかけ合いました。

池田村は承知した。額は不確ですが、代金を支払っています。

この時は、新野辺村は池田村の土地の使用権を買ったのです。

新野辺村は、そこに松の苗を植えました。

そして、金沢新田造成時に松の木は切り取られ、土取りが行われました。

その後、土地を取った跡地は「一銭講新田」となりました。

そのさい、新野辺村は金100両を池田村に支払い、新野辺村の土地として一銭講新田を購入しました。

ところが、池田村が一銭溝新田への用水路溝を土俵で堰止めてしまいました。

困った新野辺村は池田村に、さらに100両を酒代として支払い、水を得ることができました。

  一銭講林はどこ?

以上、「一銭講林」の場所を自明の場所のように書きましたが、一銭講林の場所を確かめることができていません。

史料などから、新野辺の小字である畑下・沖・水抜西・大松あたりを指しているのではないかと想像しています。

ご存知の方はご一報ください。

一銭溝林の場所が確認された時、お知らせします。

*『加古川市史(第二巻)』より

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新野辺を歩く(38):水を求めて

2012-08-10 07:16:03 |  ・加古川市別府町新野辺

   

 水を求めて

011岩崎新田・千代新田・金沢新田は海岸部にあり、一番の問題は濯概用水を確保することでした。

特に、岩崎・千代両新田の開発を推進した新野辺村の大歳治部右衛門は新田開発に先立っていろいろと新田用水の確保をはかろうとしました。

しかし、なかなか解決できない難問題でした。

一番確実に用水を確保する方法は、「五ヶ井」(図をご覧ください。図は明治25年作成の新野辺水利組合の「五ヶ井堰水路略図」です)の余水を新田に引き入れることでしたが、余水は別府川筋の低地を流れて海に入ってしまい、必要とする新田に用水を回すことはできません。

養田村方面から引こうと交渉したが、養田村自身が水に乏しい村で、五ヶ井組に入っていない村でした。

さらに不利なことは、養田村から砂地の上を10丁余りも溝によって新田へ導くことは不可能でした。

新溝をつくっても水は、地下にしみ込んでうまく流れてくれません。

そのうえ、砂留め杭やさくなどの費用もかさみ実現は困難でした。

天明年間(178189)には、岩埼新田の開発に先立って尾上の林内を新溝で通ずるように工事を申し入れています。

そして、寛政四年(1792)には、北在家・安田村(五ケ井組)の刀田山大門前大溝筋から尾上の林の西口まで新溝を掘って導こうとしました。

しかし、海岸部の農村はどこでも水が不足で悩んでいました。

両度とも五ケ井組村々の認めるところとならなりませんでした。

数年を経て、やっと鶴林寺・安田村ほか12ヶ村と話し合い、了解を得てやっと尾上の林中を通り、池田村の畑地の中を通過して岩崎・千代両新田に水を引くことが認められました。

繰り返します。もちろん、これらの水は十分でない上に、日照りの年は流れてくれません。水田は干上がり、稲は枯れてしまいました。

   

  金沢新田は新野辺村の余水で 

開発がもっとも遅かった金沢新田の水については、同新田が五ヶ井組に属する新野辺村の地先にあるので、同村本田の余水を新田に引き、そこから新田まで新規に溝を掘ることを新野辺村が認めました。

井料(水使用料)として年々銀500匁を新田から新野辺村に納めることが嘉永三年(1850)に村と金沢九郎兵衛等との間で交わされた。

 *『加古川市史(第二巻)』より

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新野辺を歩く(37):千代新田

2012-08-09 06:29:40 |  ・加古川市別府町新野辺

   千代新田のスポンサーたち

A60eece6文化十三年(1816)新野辺村の大歳冶部右衛門へ姫路藩から「池田浜の海中に潮留堤防をつくり新田を開拓するように・・・」という命令があり、新田造成が始まりました。

場所は、前号で紹介した岩崎新田の東となり(右図の赤く彩色した場所)です。

高砂の岸本吉兵衛、大野村の荒木弥一衛門、そして新野辺村の大歳吉左衛門の三人で開発にとりかかりました。

文政四年(1621)、ようやく「千代新田」として検地をうけ、田145畝・1405斗、畑441625厘・35633夕、合わせて144925厘・14463合が高入れされました。

千代新田は、一区割りごとに所有者が決められたわけでなく、岸本・荒木・大歳の外、姫路の児島又右衛門を加えて四人の連名の所有でした。

そして開発の諸費用は、はじめは、岸本が5(5)、荒木が3歩、大歳が2歩の割で負担することにしていましたが、開発、検地がなされたのち、文政四年に三人の負担率は岸本44厘、荒木・大歳それぞれ28厘に改められた。

この段階では、千代新田の所有者は4人でありながら、児島又右衛門だけは諸費用の負担者となっていません。

しかし、文政七年(1824)に、児島も負担者となり、開発以来の諸費用について岸本が35厘、荒木・大歳が各2歩、児島25厘の負担をすることに変更となりました。

   塩害の新田

「千代新田」開発のために労働力を提供した池田村に対しては、文政三年から同七年まで年々銭350491文ずつ5年間の計算で、合わせて銭1752455文が文政七年に支払われています。

その費用の負担は所持する新田の面積に従って4人が負担しました。

 開発後、附近の村々の者を耕作者として入植させましたが、「千代新田」は、海岸であるため潮気が多く、稲が立ち枯れる被害にあい、耕作の始まった文政四年、さっそく多くの入植百姓が元の村に帰ってしまったほどでした。

これを防ぐために、借財などで村方へ帰れない者や流浪人でも人柄を見て入百姓にし、家を建てて住まわせ耕作させたといいます。

やっと、文政10年(1827)、25俵を姫路藩に献上しました。

しかし、文政13年の史料によれば文政3年以降12年まで、毎年植えつけても作物は十分に生育せず、この間入植者は地主から助成してもらうことも多かったようです。

このような事情でしたから、天保四年(1833)より年貢を上納する新田として発足しましたが、年貢率はさしあたり3ツ(3割)と低い年貢率(免相)と定めらました。

*『加古川市史(第二巻)』より

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新野辺を歩く(36):岩崎新田

2012-08-08 08:11:57 |  ・加古川市別府町新野辺

金沢新田について紹介しました。その西の岩崎新田・千代新田について『加古川市史(二巻)』で説明しておきます。

今回は、岩崎新田です。

   岩崎新田(右図の赤く彩色したところ)

8a908afb寛政年間(17891801)、姫路藩は加古川の池田村の西の海岸を新田にしようとして、開発希望者は申し出るようにと触れを出しました。

しかし、開発は難工事が予想され、領内から誰も願い出る者はいませんでした。

たまたま、武蔵国秩父郡小鹿野村の七兵衛がこちらに来て手びろく仕事をしていました。

七兵衛は、他国者でしたが、北在家の紀右衛門は弟で、その二男の善兵衛は七兵衛の養子の間柄でした。全くの他国者ではありません。

七兵衛は、新田の資金を仕送りすることにしました。

北在家の紀右衛門を名義人として姫路藩に開発を申し出ました。

寛政十一年(1799)に開発の許可が下り、さっそく工事が始まりました。

しかし、工事は思いのほかの難工事で、費用も七兵衛の仕送りだけでは足りません。

紀右衛門は、多額の借金をしました。

ともかく、多額の借金を抱えたまま、文政四年(18215481合、面積5町1反4畝1歩の新田を開発することができました。

紀右衛門は、岩崎姓を公式の場でも名乗れる一代苗字御免となり、開発した新田も「岩崎新田」の名称を姫路藩からもらいました。

    岩崎新田は、岸本吉兵衛へ譲渡

しかし、新田開発の費用に要した費用はあまりにも多く、岩崎新田は一時、大野組大庄屋・荒木弥一衛門に渡っています。

この時は、紀右衛門は所有権をとりもどしていますが、借金は残ったままでした。

やがて、岩崎新田は、新野辺の大歳藤七郎・梅谷三右衛門に渡りました。

嘉永六年(1853)頃に、紀右衛門の後継ぎの八十左衛門から「岩崎新田を譲った時の銀・79貫は用意するから返してほしい」との要求がありました。

ところが、大歳・梅谷家は「新田は買い取ったものであり、譲り受けてからも多分の費用を入れているし、高砂の岸本吉兵衛から119貫で譲り受ける話がある・・」と、返すことができないと断りました。

そして、岩崎新田は、岸本氏に銀119貫で譲渡されました。

*図の三新田の位置図は『加古川市史(第二巻)』より

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新野辺を歩く(35):金沢新田③・伝承、九郎兵衛と蛇塚

2012-08-07 08:17:42 |  ・加古川市別府町新野辺

神戸製鋼所のある地区は金沢町です。ここは江戸時代のおわりのころに開発された金沢新田でした。

金沢新田の直接の開発したのは金沢九郎兵衛という人です。

 金沢九郎兵衛には、次のような物語が伝えられています。

九郎兵衛と蛇塚

 C2f0b7dd金沢新田の開発中のことでした。

 新田に大蛇をほうむったという大きな塚がありました。

 村人は、これを「蛇塚」とよんでいました。

 「もし、牛がこの塚の草をたべると発熱するし、人がその塚の草をふんだだけで熱がでる」と恐れられていました。

 金沢新田の開発は進み、蛇塚をほりおこし、水路を造らなければならなくなりました。

 ところが「大蛇のたたり」を恐れて、誰も塚を掘ろうという者がいませんでした。

 九郎兵衛は、家族に「新田開発も後は蛇塚を残すだけとなった。塚を掘ると大蛇のたたりで死ぬかもしれぬ。それで、他の者に任せてはかわいそうである・・・」と、自ら塚に鍬をいれました。

 幸い、何事もおこりませんでした。

 塚のあとから、蛇の骨のような物が2個出てきました。

 一つを自宅に持ち帰り、他の一つは、観音寺(尾上町池田)に納さめました。

 ある夜のことでした。

九郎兵衛の夢枕に大蛇があらわれ、「私の祠(ほこら)を建てて祭ってくれたら金沢家を守護するであろう」というと姿を消したのです。

 金沢家では祠を建てて祭っておられます。

*別府町新野辺地区の歴史は、今までもばらばらで紹介しています。今、「新野辺を歩く」で、まとめますので、重なった記事が多くありますが、ご了解ください。

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新野辺を歩く(34):金沢新田②・不安定な新田経営

2012-08-06 11:51:23 |  ・加古川市別府町新野辺

金沢新田②・不安定な新田経営

F36410c1金沢新田は、太郎太夫村(現:小野市市場町)の近藤亀蔵をスポンサーに、開発願主は、金沢九郎兵衛で「金沢新田」は完成しました。

 今から170年ほど以前のことである。

 金沢家に残る天保11年(1840)の古文書によると新田は、592203畝で、開発当時の総反別(84421畝)よりも、著しく減少しています。

 これは、一部のか所で地味が悪く、水稲が十分生育しなかったためであろうと思われます。

 そのためでしょうか、天保11年から5ヵ年の年貢の減免が許されています。

 安政5年(1858)にも同様の措置がとられました。

新田経営は、順調に進んだとはいえないようです。

 20年を経過した明治10年(1877)の調査記録によると田地・宅地・畑および未開発地を合わせると85625歩と記されており、開発当時の規模に回復しています。

 その後、はっきりしないのですが、新田の所有権は近藤家から一時は米沢家に移り「米沢新田」と呼ばれたこともありました。

 第二次世界大戦の頃、金沢新田のほとんどは、多木一族が所有していました。

 戦後は、農地解放により当時の耕作者へ譲られました。

*『加古川市誌(第二巻)』参照 

 写真は、昭和30年代の金沢新田(『加古川市史・第二巻)』より)

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新野辺を歩く(33):金沢新田①・金沢九郎兵衛

2012-08-06 00:19:30 |  ・加古川市別府町新野辺

金沢町は、現在別府町新野辺ではなく、独立した「金沢町」ですが、金沢町の土地は、江戸時代、そのほとんどが金沢新田で、多くが新野辺村に属していたため「新野辺を歩く」に含め紹介します。

金沢新田・金沢九郎兵衛

42b87565右の地図(国土地理院発行・大正12年)をご覧願ください。

 彩色した部分が、「金沢新田」です。

 この低湿地帯にはじめて開墾の鍬を入れたのは印南郡砂部(いさべ)村(現在:加古川市東神吉町砂部)の金沢九郎兵衛でした。

 金沢家に残る古文書等から判断して、「金沢新田」は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われます。

 金沢家に残る別の文書では、天保九年に完成となっています。

 これに関して、地元(別府町)の研究家は、「・・・天保八年完成したが、同年には新田の名前も決めず、準備している中に、その年がすぎてしまい、天保九年になってから字名を金沢新田と決め、役所に届けたのであろう・・・」としています。

 この時の新田は84421畝でした。

 開墾費用は、銀854855分と莫大で、九郎兵衛にそんな金はありません。

スポンサーは、加東郡太郎太夫(たろうだゆう)村(現:小野市市場町)の近藤亀蔵でした。

 少し余話を書いておきます。

  ・・・・神戸電鉄の市場(小野市市場町)から西へ少し行くと太郎太夫というところがあり、太郎太夫に近藤亀蔵という大金持ちがいました。

 「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門通れば後光さす・・」と、当時の俗謡にも歌われるほどでした。

 享保年間にはじまる『日本長者鑑』という長者番付が出たとき、東西の横綱としてあげられたのは、東が出羽の本間の財産40万両で、西は播磨の近藤60万両であり、近藤家は日本一の金持ちでした。

 ともかく、近藤一族をスポンサーに、開発願主は九郎兵衛で、金沢新田は完成しました。

 お気づきになられたことと思われますが、基本的に金沢町は金沢新田の上につくられています。

金沢町は、そこから名づけられた町名であり、そのもとになったのは九郎兵衛の姓でした。

*『加古川市史(第二巻)』・『加古川市誌(第二巻)』参照

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