ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

東播磨の中世石塔と文観(7) 真言律宗の寺々

2017-03-28 07:55:28 | 東播磨の中世石塔と文観

 今日のブログの内容は、多くを山川均論文「東播磨の中世石塔と文観」からお借りしています。

 詳しくは「東播磨の中世石塔と文観」(奈良歴史史学会)をお読みください。

    やはり文観は、加古川出身者

 文観(12781357)は、殊音とも称する真言律宗の僧侶です。

 ここでは、文観の調べてみましょう。

 「・・・文観の弟子であった宝蓮が筆写した『瑜伽伝灯抄』によれば、文観は源雅信第十三代の子孫・大野源大夫重真の息子であるが、この重真は播州の人であった。

 また、常楽寺は加古川町大野に所在する。

 こうした点より、文観の出生地については、常楽寺近辺とする説が有力である・・・」

    真言律宗の寺々

 また、『西大寺諸国末寺帳』のうち明徳二年(1391)に作成された「明徳末寺帳」には「播磨国」の西大寺のとして筆頭に常楽寺」の名があり、傍注には「北条」と記されています。

 そして、現在の加古川市にある西大寺の律宗の寺院として、以下寺院をあげています。

    (北条)常楽寺

   (オノヘ)成福寺(*場所その他詳細は不明)

   (平)報恩寺

 *北条(郷):大野村・大野新村・中津村・平野村・河原村・溝ノ口村・間形村・篠原村・寺家町(大野新村と間形村は、明治22年合併して美乃利村となりました)

 そして、興福寺の衆徒が文観を「(文観は元)西大寺末寺、播磨国北条寺之律僧也」と述べている史料があります。

 「北条寺」は常楽寺の別称なので、文観の原点はやはりこの寺にある可能性が高いといえます。

 先に紹介した常楽寺の宝塔は、伝承通り文観の母の墓塔とすることに関しては鵜呑みにはできないのですが、この寺が文観の出自と深く関わっていることは間違いがなく、ひいてはその時代性を考慮すれば、常楽寺宝塔も文優と関わるものである可能性もあります。(no3526

 *挿絵:文観のつもり


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