ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

知識の喪失

2009-05-21 04:17:32 | 音楽あれこれ
今回はちょっと真面目な話をします。ある人が「楽曲分析をしたので見て欲しい」と言ってきました。この人は学生時代に音楽の勉強をしていたとのことで、楽曲分析の授業も受けていたそうです。そういうことならば確認してあげる程度で済むなと思い、見てあげることにしました。

分析してきたのは19世紀前半の、いわゆる前期ロマン派の作品。いうまでもなく調性はハッキリしています。つまりこの作品は機能和声でできているので分析するのは至って簡単なはず。そこで分析は本人の説明を聞きながらやろうと思いました。

ところが、これがまったく分析になっていないのです。調性音楽における和音の機能すら理解できていませんでした。いや、それどころか和音の説明をするのに機能和声の記号でなく、あろうことかギターなどで用いられるコードネームが書いてある始末。まったく話になりません。

  (注):コードネームは単独の和音の種類を示すもので、その前後の和音とどのような関係かは問われません。しかし調性で書かれている音楽を分析するには着目する和音がその作品のなかでどのような機能を果たすのかを知ることが重要なので、分析にあたってコードネームは意味をなさないのです。

つまり、この人は機能和声のことがわかっていないわけです。そんなことすらわからないのに分析するのは意味がありません。そこで調性音楽とはどういうものであるのか、また機能和声とは何なのかという分析以前の極めて初歩的な説明から出発するしかありませんでした。

周知の通り、大学とは専門知識を学ぶところです。在学中はどの学生も高度な知識を身につけ、それに基づいた優れた論文を残したりします。しかし、残念ながら卒業後しばらく学問から離れてしまうと折角身に付けた高度な知識も綺麗さっぱり抜け落ちてしまうようです。悲しいかな、これが現実。

確かに本人の意識のなかには「かつて勉強した記憶」が残っています。でもこれは単なる経験の記憶であって、知識が蓄積されているわけではありません。その事実に気づいた時、本人は愕然とするのです。「私は何も覚えていなんだわ…」と。

専門的知識はそれが高度であればあるほど反復して学習していないとすぐに忘れてしまいます。その人は現在趣味程度で音楽を楽しんでいますが、かつて学んだという記憶があったとしても現在の知識レヴェルは何も知らないのとほとんど変わりません。専門知識とは継続して学ぶことにより身に付くもの。趣味程度の人がちょっと学んだところで習得できるものではないのです。これが専門家とアマチュアの違いといっても過言ではありません。
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