湘南オンラインフレネ日誌

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8/21 避難所・地域における急性期と治療支援&保健活動を切り出す(14)他

2015-08-22 05:04:51 | 地震津波災害ボランティア

2015/08/21 記
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(前回の続きより)

急性期の避難所は、ひとの入れ替わりが激しい。とりあえず地区指定の避難所・近隣の避難所に入ったものの、散り散りになった家族の消息を求めたり、入院できなかったトリアージ緑タグの傷病者が、より安静にできる環境を求めて移動していく例が多いのだが、被災翌日から、若夫婦の移動も増えて行く。これは、乳幼児を抱えてのことだ。

避難所には較差があった。それは蓄積物資や周辺から送られた支援物資が早々に供出できる避難所と、とりあえずの居場所のみの避難所との差だった。自治体指定避難所、特に学校や公共施設の避難所と、地元の寺院が場所を提供しているような民間避難所や、小集落の公民館避難所との差だった。

乳児に必要なミルクと哺乳瓶が揃わなかった。おしめも入手が困難だったし、飲料水が不足するために、粉ミルクを溶いたり、濡れタオルで尻を清拭することに、即座に困ることとなった。

またアレルギーも大きな問題だった。清拭不十分な肌は、たちどころにただれ、配給される食物も成分が明らかではないと、下手をするとアナフィラキシー・ショックを起こして、子どもの命の問題になりかねなかったからだ。

しかし、夫婦には大きな悩みがあった。乳児が昼夜を問わず泣くのだ。追い詰められている避難者は苛立っている。泣かせるなと怒鳴られたり、なかには「親のしつけ」と説教がはじまった。

行政や医療関係者は、乳幼児を抱える夫婦について福祉避難所の優先入所を勧めているが、人数分のスペースを取ることが出来ず、夫婦は行き場所を失い、乳児用物資と空きスペースを求めてあちこちの避難所を彷徨うことになる。折角見つけた避難所も、今度は配給物資が届かず、大きな公共施設避難所に物資を分けてもらいにいくことになる。

ところが安否確認のために入所者名簿を作り始めている公共施設避難所では、自治管理者が「名簿にある現入所者以外に配給物資は渡せない」と拒否する石頭担当者が必ず出てくる。阪神淡路大震災も東日本大震災のときも、あちこちで、この拒否が問題になった。

福祉避難所や、一般避難所別室利用の乳幼児を抱えた夫婦に対し、「暖かいミルク哺乳瓶と換え乳首・おしめ・濡れペーパータオル・パンツ」を探し出して提供する地元の配達ボランティアが必要だ。必要な品目がわかっているので、地元中高生の自転車配達部隊でも大人の指導者がいれば、運営できる。

震災のあとは、きれいな川の流れであっても、食器や哺乳瓶を洗ってはならない。上流に動物の腐敗死体があったり、上流でトイレを済ませる者がいたりする場合があって、行政・保健所の水質検査を踏まえる必要がある。これは井戸でも同じだ。保健師さんたちが、この辺の末端管理を行うが、衣類とはいわずとも、食器等の水洗は大きな問題だ。これは避難者が勝手に水洗してはならないのだが、東日本大震災では食器にラップを敷いて、複数回使ったり、紙で食器を拭き取ることが拡がった。自衛隊や他自治体の給水車が飲料水の配給が始まっても、水は不足した。食器洗い・洗顔・衣類の洗濯・入浴・トイレの水洗などの水は、清浄度の段階をつけ、段階的に利用・節約をした。まず集団生活、特に疲労を蓄積している集団では、厳重に感染症対策を行わなくてはならない。食中毒・インフルエンザを初めとした伝染病では死者すら出かねない。

この話題の家族、妻の話に戻ろう。体育館の床は硬い。すし詰めのスペースで、母のおしめを交換する時、隣の家族に匂いを気兼ねせねばならない。普段、トイレに誘導して排泄させていた介護も、トイレが遠方になり、母の体力が萎えていることもあって、おしめで済ませてもらうことになった。実はこの行為が母の衰弱を早めていくことにつながっている。歩けなくなったり、立てなくなったりするのだ。(廃用症候群または生活不活発病。詳細は後記)しかし、肩を貸してくれる人は少なく、夜間は無理という介助の板ばさみがある。

(参考)
●「「動かない」と人は病む」大川弥生著

床が硬いために、母の体位も時々変更する必要があった。「褥瘡(じょくそう)」防止対策だ。すでに褥瘡を作ってしまっている高齢者や身体障がいの方は、褥瘡から感染症をひろげ、悪性腫瘍・アルツハイマー病・うつ血性心不全・関節リウマチ・骨粗しょう症・深部静脈血栓症・パーキンソン病・慢性閉塞性肺疾患・末梢血管疾患・尿路感染症などに悪化して行くことがある。この体位変換が介護の時間制約を起こし、介護者の疲労を蓄積させることになる。巡回看護師・保健師ら、医療関係者が処置を手伝ってくれるが、こんにゃくを持ち上げるように、非常に重い。人数の少ない巡回看護師・保健師さんに頼るわけにもいかず、特に夜間巡回してくれる地元ボランティアがいたなら、どれほど助かるかと思う。しかし、ベッドではなく床に寝ている方の体位変換は、介護者の腰に大きな負担をかける。ボランティアをする方も、腰を痛めるリスクを抱えることになる。

(つづく)

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「金曜災害ミニ・カフェ」を行った。各5分の被災体験談番組だ。

●「あの日 わたしは~宮城県仙台市・今野真理子さん」
(2015/07/14 NHK 放送)
●「あの日 わたしは~宮城県南三陸町・齋藤淳子さん」
(2015/07/27 NHK 放送)
今野さんは障がい者作業所「みどり工房若林」の施設長。利用者さんとともに無事避難できたが、作業所は流され、避難所生活が始まった。工房には精神障がい・引きこもり・知的障がいの成人利用者さんが在籍していたが、避難生活が始まったとき、利用者さんが避難所運営を自主的に手伝うようになり、生活改善が一気に変わっていったという。居場所と役割が与えられたとき、ひとは脱皮するが、災害ユートピアの典型事例。大事な証言。

また齋藤さんは、20年余の筋金入りの引きこもり歴を持っている。震災直後、津波避難と他者との出会いの恐怖の板ばさみに遭いつつ、必死の思いで部屋を脱出する。自治体放送の避難指示を担当していたアナウンサー職員の被災死に衝撃を受け、引きこもり体験の語り部として、復活を果たす。この2作品はいずれも、社会的役割が与えられることの自立への大きな契機と力になることを実証しているように思う。


●「あの日 わたしは~岩手県大船渡市・葉澤健一さん」
(2015/06/02 NHK 放送)
●「あの日 わたしは~宮城県東松島市・大泉照男さん」
(2015/07/09 NHK 放送)

葉澤さんは、下肢障がいで「車椅子」生活を送っている。工場のライン作業中被災。同僚に車椅子を押してもらい無事避難する。被災時何をしてもらいたいかを明らかにしておくことの大切さを語る。

大泉さんは、高齢者特養ホーム「不老園」の臨時職員。発災直後、車に高齢者と職員2名を乗せて避難を図る。しかし道は渋滞、避難所200m手前の踏み切りが遮断状態になっており、避難が遅れた。踏み切りで津波をかぶり、職員の3人は、流れ着いた屋根に乗って助かったが、車内の入所高齢者さんたちは、車とともに水没。職員は負い目を抱えることに。

東日本大震災では、多数の障がい者・高齢者が逃げられずに亡くなった。これら要援護者の方の命を救う道はなかったのか、改めて問うことに。

話題が分散した会合だったが、今野さんの番組は特に皆さんに観てもらいたいと思う。NHKアーカイブスに入るだろうか。

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夜間傾聴…塾長の奥さんの紹介の方、息子さんが引きこもっている。

(校正2回目済み)

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