湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

9/5 新聞1紙をやめました/パラ閉会式の嵐

2021-09-06 12:47:00 | 地震津波災害ボランティア
2021/09/05 記
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私が高校生のころから、新聞は2紙取っていたが、1紙をやめることにした。家計のこともあるが、一日の読字総量が、追いつかなくなったのだ。ざっと眺めて、興味のあるところは、字を包むように読むという従来の読み方の、「ざっと眺める」が出来なくなった、明視視野が明らかに狭まったのだ。じんわりと、ものにぶつかる頻度もふえている。縦字読みの困難は文面を90°時計と反対まわりに文面をまわして読む工夫をしたり、読み上げ機を使ったりしてきたが、総量が追いつかなくなった。悲しい。

見出しを見て、記事を選択して字面を読むという読み方に落ちていたが、1紙を捨てることは、デスクトップPCの大画面ディスプレーが、全体像を捨て、文字の拡大用に機能ダウンすることに似ている。日常把握が欠け落ちた感が強い。
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パラリンピックの閉会式を観た。きっと「無事に済んでよかったね」と、皆はまた事を流しているのだろう。ひとが殺されても、「家族が無事でよかった、こわいねえ」で話が閉じる。危険な橋を渡らされたこと、今までの例からすれば、冷や汗をかくことが、実は覆い隠されているのだろう。じっと口を閉じる。これからの1週間、パラ関連コロナ感染が広がらないようにと願う。

「ひと(選手)が一生懸命やったことじゃない、嬉しいじゃない」と母が私の偏屈をなじる。「半径10m以内の身近以外のひとの不幸を悲しめるのか」と私が問う。何を言っているのか、母には通じない。

閉会式は進み、フランスの街頭取材の映像が流れた。身が接するほど寄り合い、大きな口を開けて笑顔を交わしている熱狂したマスクなし群衆。

私("たち"とは、あえて言わない)の防疫活動は偏屈親父の小言かと拗ねてみたくなる。

コロナによって、私の知人ひとりが生死の境を彷徨っている。母の友人二人が犠牲になった。なのになぜ、母に大きな落差。

「オリンピックの閉会式と、つい比べてしまうね」と母。世界の場にでられるのだと、懸命に演じる参加者の、その踏みしめる舞台の硬さに痛みを感じる方がいるだろうか。

さっさと食卓を片付ける私に、TVの音量をあげる母。

一日が終わる。

(校正2回目済み)

p.s. 明日は前期高齢者特定健診の結果を聞きに行く。

コメント
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