2014/05/21 記
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昨日のペット・レスキューの「新しい飼い主」さん探しという活動に、違和感を感じている方も多いに違いない。私もまた里親さん探しは、私が考えている目的の傍流活動のように感じている。
私はペットと向き合う時の飼い主さんの心の静穏が好きだ。災害は、この心の静穏を破壊してしまう。私は家族の介護のことで、特養をいくつか覗く機会を得た。その中で私は、ペット・セラピー(療法)という活動の現場に立ち会うことができた。実はこの「ペット・セラピー」は、不登校・引きこもりの傷ついた心に、命の営みの一角のペットとの「交流」という場面に立ち会うことができる優れた方法であることは知っていた。犬猫との交流は、引きこもり青年たちの中間的就労や、トリマーなどの職業の分野への就労への契機として可能性を持っていると思ってきた。その目で、高齢者のペットとの出会いは、より深みに満ちたものだった。
恋愛が本質的に能動的なものであるのと同様に、猫を頬に摺り寄せている老婦人は、猫を愛していた。能動的に愛する自分に出会っているのだ。ペットを飼っている方の「うちの○○ちゃん」という人称で語るそれは、ペットを家族として受け入れているのだ。災害避難の際、人命が大事と、ペットを残して避難したあとに、それゆえに心に深い後悔と悲しみがやってくる。だから、ペットを生きて保護できたとき、それを守りたいと考える方の気持ちは「たかが獣」ではない。幼い子がペットと死別した体験がPTSDを起こすほどに深く心揺り動かされていることは、保護されたペットたちに安住の地を提供することによって、その喪失感を抱く方々への間接的なプレゼントとなりうる。
だから「新しい飼い主さん(里親さんと呼ばないで下さいという、ひとの里親の会からの抗議があって、里親と呼ばなくなってきている。)」にペットを預けて行く活動は、本来は被災しペットを失った方々への贈り物の意味で行ってきた。生命の等価性に基づき、自然保護と結びつけた発想から、ペットの命を保護するという活動ではなく、私は活動の価値をもっと人間に引き寄せて考えている。
しかし楢葉町の「白」は、我が家の通り猫たちとも隔離・座敷飼いをしていて、一度突き返された猫だけに、この状況が持続できない状況になっていた。薬剤師さんの「きじ猫」君は、やはり野良から受け入れた猫で、猫エイズを持っていた。だから「白」が猫エイズということで、不妊手術と予防注射を行ったうえで引き受けてくれることになった。
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今日は「NPOサポートちがさき」の総会だった。順当に議題が通過し、閉会したところで「金曜災害ミニ・カフェ」の予定表チラシを撒いた。説明は加えなかった。災害ボランティアという意味では、誰も接点が無い方ばかりだったからだ。
さっさと夕食の買い物を済ませて気が付いた。これから相模大野校である。まあいいかと青ネギがはみでている袋を両手に、教室に入っても生徒は慣れてしまっている。
風邪気味なので話を少なめにし、演習っぽい流れでお茶を濁した。
先日の講師研修の時の話が変だったと、新入講師が語りかけてきた。もはやこの世代は「窓際族」の言葉を知らない。私のことを、押し出されて窓から自殺するのではないかと思ったようだ。君の想像力はすばらしいよといいつつ、ご心配なくといいつつ、辞書を手渡した。素直に教えればいいのに、この辺が偏屈爺ぃなのである。
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墓石の記銘確認の電話がかかってきた。まだ出来ないのかと思う。父が死んで半年たってしまう。
被災地親の会関係者も調べている。これは7月ではなく秋口の分だが、要点は避難スキルを高めるというより、災害という事態を肌身に感じて欲しいことと、既存の地域システムだけでは保護しきれない事態が起きること。大震災レベルの広域災害では、内陸部の保護施設もパンクしてしまうことを念頭に置きたい。懇話会の目的は比重を避難生活におく。
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朝日新聞が福島第一原発のすっぱぬき記事をだした。原子村の懲りない人々、これには呆れている。他の新聞社の静けさ。様子見なのだろうか。