昨日は、茅ヶ崎北口のさがみ農協の会議室で催されたシンポ「誰もが暮らしやすい街づくりとは」の後、夜に相模大野の巡回が入った。以前担当していた子なので、勝手は分かっていたが、引きこもりは当人だけの問題ではないのだと重ねて思わされた。
「読み」「書き」「そろばん」さえ身につけてくれれば、無理して学校にいかなくていいというおばあちゃんの教育論が家族を仕切っていて、ひとなみに高校さえ出てくれればと、昨日も何回聞かされただろう。子どもが引きこもると家族は心配のあまり、彼のゴールを引き下げて妥協線を図ろうとする。「身につける」その「身」のことに思いが至らないのは、なぜなのだろうかと思う。家族が世間の最低限の理解者と自ら言い募れば、彼が家族に窒息しそうな思いを抱いていることに無頓着になる。家族の世間体抱え込みの強さに閉口して、以前、担当を降りたのだが、彼が一時通学を再開していたのですべてが棚上げになっていた。年明けから彼の部屋のカーテンは再び開かなくなった。
再会した彼は饒舌だったが、ますますその言葉は宙を舞っていた。ガラスのバリアが張られていて、私はそばで、百万言の先を待つ以外なかった。
簡単な巡回レポートのメールを携帯からFAXしたとき、奇妙な悲しさに襲われた。明快な理由があるわけではない。飛び石を伝って歩く道の敷石の隙間に足が次々に、はまっていくような悲しさだった。私の仕事は彼の隙間にともに立つ。ふらつきながら、問題の背後の見えないコンディションを立て直す。
私は、昼間のシンポジストの方への質問を反芻していた。
身体障碍の領域で自らの車椅子生活の目で、ピア・カウンセリングを行っているTさんの提案への疑義のことだった。今、当人は誰にも話せない苦しみを抱えていて、孤立している。夜間の寂しさに、語る相手が欲しいというそのニーズに応じて夜間のカウンセリングを行っているが、この仕事がこれからますます必要となってきているという。この11時台の対話は貴重である。地域の当事者の真の思いを受け止めて、このカウンセリングを拡げていくことが、「暮らしやすい街づくり」へとつながる基礎になるのだという。私はカウンセリングは、対話のネットワーキングのしこり取りに尽力することで、カウンセラーは網の目の、強いブラックホールのような結び目であろうとは思わない。
シンポでは様々な東松山市の地域サポートの事例が紹介されていたが、その後、なにやら突然カウンセラー・ワールドが飛び出したようで、かえってその地域に生きる者の「生き難さ」に「ともに生きる」者として寄り添う、そのあり方のカモフラージュが見えてしまったように思えたのだった。一般的には傾聴者は「嘆きの壁」自らは動かない。動き出すのは彼である。だから見えないのだろうか、一緒に何をするのだろう。そこが問われるべきことであるのに、ことばの闇の中に沈んでいるように思えたのだった。
私は心理カウンセラーの資格を持っていない。教員として学習カウンセリングの立場から、実質はその境界の曖昧な世界を歩いている。社会中がカウンセラーで埋め尽くされることを願っているわけではない。底無し沼のように、傷口の見えない鈍痛に身をすくめる者や、ばっくり傷口の開いた激痛に血を流す者、枯れ枝が折れそうな者など様々な青年がいる。傾聴が重要な意味を持つということは正しいが、その職で世界を見ては自己追認の存在主張に引かれて、世界が歪むというものだろう。今問われているのは、一緒に生きていくその姿であり、そこに知恵を寄せ合う実践だろう。
私に訪れた悲しみは、携える糸が切れている悲しみなのだと分かった。暗中模索を厭うつもりはない。連綿と語られた青年の雑然とした言葉の影を追う私は、いわゆる遊軍なのだと自らを解釈してきたが、誰のと問われたとき、彼のと答えたときのともに闇に立つことへの身のすくみなのだと知った。
分かり合える者の出会いによるエンパワメントというが、必要なのはその先、次のこと。そこをどう描くかは、支援者の側も、誰も手を携える者がいない世界である。
カウンセラーは、なぜひとをネットワーキングしないのだろう。それは松山市総合福祉エリア施設長の曽根直樹さんが語った通り、「医療モデル」から抜け出ていないからだろう。国際機能生活分類(ICF)の当人の「活動」からとらえ返された新たなモデルに、カウンセリングは転身しつつある。しかしこのとき、藪から社会を眺めるような外側の視点(観察)は残っていくのだろうか。関与観察が研究者の間で改めて議論されている背景にも新たな関係の模索を感じるが、結局はともに歩むものではない限界、または操作の発想が浮かびあがってしまう。
私は藤沢について、終バスに追われて食事を諦めて、コインロッカーの食材をとりだして家にもどった。茶の間には擦り傷だらけの四肢を投げ出して、TVのお笑いに、微妙にシンクロをはずした父の笑い声が響いていた。小分けにした隣のドレッシングソースの小鉢の意味が分からず、作り置いた生野菜は出がらしの茶の葉に埋まっていた。ここもかと思いつつ、家族の茶碗を洗い、玉子を割って食卓に付いたと同時に傾聴の専用電話が鳴り出していた。
今日は市民活動フォーラムが午前中からある。午後からにさせてもらうことにする。
夜間傾聴:相模大野君(仮名)父親から
******君(仮名)親
●「市民メディア活動―現場からの報告」再読開始
(校正2回目済み)
「読み」「書き」「そろばん」さえ身につけてくれれば、無理して学校にいかなくていいというおばあちゃんの教育論が家族を仕切っていて、ひとなみに高校さえ出てくれればと、昨日も何回聞かされただろう。子どもが引きこもると家族は心配のあまり、彼のゴールを引き下げて妥協線を図ろうとする。「身につける」その「身」のことに思いが至らないのは、なぜなのだろうかと思う。家族が世間の最低限の理解者と自ら言い募れば、彼が家族に窒息しそうな思いを抱いていることに無頓着になる。家族の世間体抱え込みの強さに閉口して、以前、担当を降りたのだが、彼が一時通学を再開していたのですべてが棚上げになっていた。年明けから彼の部屋のカーテンは再び開かなくなった。
再会した彼は饒舌だったが、ますますその言葉は宙を舞っていた。ガラスのバリアが張られていて、私はそばで、百万言の先を待つ以外なかった。
簡単な巡回レポートのメールを携帯からFAXしたとき、奇妙な悲しさに襲われた。明快な理由があるわけではない。飛び石を伝って歩く道の敷石の隙間に足が次々に、はまっていくような悲しさだった。私の仕事は彼の隙間にともに立つ。ふらつきながら、問題の背後の見えないコンディションを立て直す。
私は、昼間のシンポジストの方への質問を反芻していた。
身体障碍の領域で自らの車椅子生活の目で、ピア・カウンセリングを行っているTさんの提案への疑義のことだった。今、当人は誰にも話せない苦しみを抱えていて、孤立している。夜間の寂しさに、語る相手が欲しいというそのニーズに応じて夜間のカウンセリングを行っているが、この仕事がこれからますます必要となってきているという。この11時台の対話は貴重である。地域の当事者の真の思いを受け止めて、このカウンセリングを拡げていくことが、「暮らしやすい街づくり」へとつながる基礎になるのだという。私はカウンセリングは、対話のネットワーキングのしこり取りに尽力することで、カウンセラーは網の目の、強いブラックホールのような結び目であろうとは思わない。
シンポでは様々な東松山市の地域サポートの事例が紹介されていたが、その後、なにやら突然カウンセラー・ワールドが飛び出したようで、かえってその地域に生きる者の「生き難さ」に「ともに生きる」者として寄り添う、そのあり方のカモフラージュが見えてしまったように思えたのだった。一般的には傾聴者は「嘆きの壁」自らは動かない。動き出すのは彼である。だから見えないのだろうか、一緒に何をするのだろう。そこが問われるべきことであるのに、ことばの闇の中に沈んでいるように思えたのだった。
私は心理カウンセラーの資格を持っていない。教員として学習カウンセリングの立場から、実質はその境界の曖昧な世界を歩いている。社会中がカウンセラーで埋め尽くされることを願っているわけではない。底無し沼のように、傷口の見えない鈍痛に身をすくめる者や、ばっくり傷口の開いた激痛に血を流す者、枯れ枝が折れそうな者など様々な青年がいる。傾聴が重要な意味を持つということは正しいが、その職で世界を見ては自己追認の存在主張に引かれて、世界が歪むというものだろう。今問われているのは、一緒に生きていくその姿であり、そこに知恵を寄せ合う実践だろう。
私に訪れた悲しみは、携える糸が切れている悲しみなのだと分かった。暗中模索を厭うつもりはない。連綿と語られた青年の雑然とした言葉の影を追う私は、いわゆる遊軍なのだと自らを解釈してきたが、誰のと問われたとき、彼のと答えたときのともに闇に立つことへの身のすくみなのだと知った。
分かり合える者の出会いによるエンパワメントというが、必要なのはその先、次のこと。そこをどう描くかは、支援者の側も、誰も手を携える者がいない世界である。
カウンセラーは、なぜひとをネットワーキングしないのだろう。それは松山市総合福祉エリア施設長の曽根直樹さんが語った通り、「医療モデル」から抜け出ていないからだろう。国際機能生活分類(ICF)の当人の「活動」からとらえ返された新たなモデルに、カウンセリングは転身しつつある。しかしこのとき、藪から社会を眺めるような外側の視点(観察)は残っていくのだろうか。関与観察が研究者の間で改めて議論されている背景にも新たな関係の模索を感じるが、結局はともに歩むものではない限界、または操作の発想が浮かびあがってしまう。
私は藤沢について、終バスに追われて食事を諦めて、コインロッカーの食材をとりだして家にもどった。茶の間には擦り傷だらけの四肢を投げ出して、TVのお笑いに、微妙にシンクロをはずした父の笑い声が響いていた。小分けにした隣のドレッシングソースの小鉢の意味が分からず、作り置いた生野菜は出がらしの茶の葉に埋まっていた。ここもかと思いつつ、家族の茶碗を洗い、玉子を割って食卓に付いたと同時に傾聴の専用電話が鳴り出していた。
今日は市民活動フォーラムが午前中からある。午後からにさせてもらうことにする。
夜間傾聴:相模大野君(仮名)父親から
******君(仮名)親
●「市民メディア活動―現場からの報告」再読開始
(校正2回目済み)