湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

茅ケ崎市・市議候補に障碍福祉の意見を聴くが…/個人をフォローする活動の限界

2007-04-17 05:29:47 | 引きこもり
*君から連絡があってほっとしている。今日は彼の主治医の診察日なので、彼の迷いが鬱積している可能性があったからだ。

春先は、傍流に押しやられた者には生き辛い季節だ。沈黙が決して静穏を意味しているのではなく、水面下で何かが起きていることの方が多いのだ。

神奈川県県民部青少年課から、活動状況アンケートが来て書き込むのに困ったことは以前書いた。ボランティア養成のために、既存の活動団体のキャパシティを調査しているのだろうけれど、フリースペースを基盤に展開していることが前提になっているために、私のところのように「オンライン上」で展開している活動ははみ出てしまう。

そこに参加者数を書く表があったのだが、書き込んで笑った。全員成人としたいところだが、小3がひとりいるのだ。お父さんの技術指導下で娘さんがメールを送ってくる。まあこれは例外ではあるのだが、隔週のお楽しみの話なのである。

しかし成人と書いたその文字の背後の闇の深いこと…。

短期回復の神経症の方は少数。前の塾経由、通過の方の紹介(これが大変な方が多い)、知人のカウンセリング活動の紹介のルートから入ってくるが、何らかの精神疾患を伴っている方が多い。私は心理カウンセリングの資格がないので、医師や、心理士の補助というか、夜間などの緊急時の危険回避屋(ストッパー)というような彼らが対応しきれない時間帯を「夜間傾聴」の形で支えている。年からして、そう長く続けられない仕事だとは思っている。

伊勢原君(仮名)は知人のつてで、ヨガを始めている。ところがさっそく、問題が起きた。曜日を割り当てられても、体調からその決まった曜日にいけないというものだった。統合失調症の彼を受け止めてくれる所が少ないからだ。電話で先方の経営者と話をした。結局担当者への早めの連絡と、他の曜日に空き席が出たときに、彼の参加を許すというもの。

○子は再び主治医のところへ。

これは生業の巡回仕事の関係だが、ADHDと診断された方が自由が丘に、うつ状態の方が座間に、行動障碍の方が相模大野に、そして成人期のアスペの方が藤沢にという具合だ。

私は磨り減って、お互いは接点無く、ばらばら、「わーく」には程遠い方ばかりなのだ。

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市会議員候補者に、障碍福祉の考え方を聴く会が昨日、茅ケ崎市役所分庁舎コミュニティホールにて開かれた。

様子がわからない初回の立候補者と、ある政党関係の議員候補さんたちが並んだ感じ。しかし逆に、参加しなかった候補たちの政治センスが読めて面白かった。しかし2候補除いて、あとは現職まじえて、「ご意見を聞きこれから勉強する」というステレオタイプ化した発言にあきれ返ってしまった。それほどに障害者福祉行政は立ち遅れている。

一方、「わーく」の参加呼びかけ配布は、私が10時ぎりぎりに来たのがいけないのだが、閉会後12時から会場を使う団体があるということで、会終了後は、ごたごたの大騒ぎで会場撤去。その結果10部程度の配布で終わってしまった。会参加者の3分の1ほど。

ある候補が就労支援にふれた。もうひとりも障碍者も働ける地域社会をと語るので、Q&Aの時間、質問をした。

ある大型店舗ではバックヤードの品だしバイトの採用の際、吃音があると接客の質の問題があるということで採用しないとか、アトピーを病歴に記載すると、食品部門からおいだされるとか、(注意:次は補足で言わなかった部分『またある女性は癲癇があるために、市内大型店舗の採用すべて門前払いになった。ある中年女性は親指切断の障害者であった。PCも支障なく使えるのにレジのバイトを断られた。客に不快感を与えるという理由だった。』)こういう、企業側の意識改革がないと、障害者の就労支援などと語る状態ではないのではないかと問いただした。まず隗より始めよである。それを抜きに、「就労支援を語るな」と発言した。それは事実、彼の職場採用部門で起きたことも含んでいた。

さすがに気分を害したか、さっさと帰ってしまったが、リップサービスではだめ。如何にイメージ選挙であるかが、浮かび上がってしまったのだった。

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夜間傾聴:#さん母
     レギュラー君1名
     *君
メール:昨日の問い合わせの応答
巡回:町田1件のみ


今日の予定:
面談:   *君のガードに空けてあるが大丈夫そうなので、茅ケ崎サポセン
      *君と16時台に茅ケ崎で会う。
巡回:*君大丈夫なら、伊勢原君(仮名)と面会
作成:NPOちがさきの自主事業PJ立ち上げ申請用企画書作り

以上

(校正2回目済)
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(これは昨日掲示予定分です)コーディネート活動の立場からの地方選

2007-04-17 03:00:50 | 引きこもり
(昨日分です。)

茅ケ崎市の市議選・市長選が始まった。

しかし相変わらず私は、今日からNEWDAYSが1週間、平塚駅と辻堂駅店に「わーく」を置いてもらえること優先で、ともかく「わーく」を持って店長さんにご挨拶をし、就労支援の関係者のところに、当事者探しの依頼のために立ち寄ろうとしていた。ところが誰も連絡が取れないのだ。そう、今日は公示日。昨夜、公示とともに選挙ポスターを掲示板に一斉に貼り出す作業によって、この1週間は、いよいよ大詰めの期間となっていたのだった。自分をピンぼけだなと思いつつ、いつもこの時、境界線に落ちるのだなと思ってしまう。

どんなに現場の仕事から社会改革を行おうとしても、お互いがつながり協力し合うことがなかったら、それは力にはならない。それはいやというほど味わってきたことだ。しかし私が行ってきた活動は、競争原理に歪む社会に取り残されてきた人々の「社会復帰」というより「社会への再構成」をめざしたものだから、理想型として「正常な実社会」を前提にせず、「いま・ここ」から、人をふるい落とす社会を「変革する」質を膨らませていこうとしていた。

ところが、これこそ様々な価値と方法が衝突する道だった。私は先見的な理想を前提にしない。その理想が、個人に起きている事象を強引に翻訳してしまう抑圧に心を麻痺させることを知るからだ。ところが政治は共通利害による統治だから、活動は力を代償に束ねられてしまう。例えそれを飲んだとしても、政党の束ね方からは、はずれてしまう。

例えば不登校の問題は、学校に行かないことに問題があるのではなく、学校という集団に、子どもの学びと生活がかかる人間関係が一元的に支配されていること、つまり立ち止まって、また歩みだす間の自由が閉じていることにある。そしてその立ち止まりには、語りつくせない個人の事情の迂回と闇がつれそっている。(実はこの迂回や闇が原基として創造を準備している。私は産婆の役割となる。)加えて、学校の指し示すまなびが風化していても、子どもは拒否できない。まなび管理に教員と生徒の非対称性がある。

ところが大人の価値観では、解決策が新しい学校建設であったり、わかる学び・面白い学びだったりする。後者は私が交通事故入院前には、矛盾だが、そのコーチで生計をたてていたわけで、子どもがかかえている、いじめや個的な人生体験や疑問に何も応じてはいないのだ。ところがこの子たちを地域で受け止めている者は、カウンセラーであったり、親の会・私塾等であるが、当事者の迂回や闇に連れ添うものというより、諭し封じ込めるものとして突き放し、操作してしまう。では、そうではない活動は束ねられるのかと考えると、「居場所」論の穴が見えてくる。場を与えても、社会の中に育む彼らの活動よりも庇護隔離が浮かんでしまう。ここに束ねが見えてくるのだが、その束ねさえも選挙活動にはなじまないものだ。私と僭称すれば不登校の子たちは、大人社会に何を言えというのか。結局活動しやすい環境を提供せよという形になってしまい、靴の上から足を掻くような事態になってしまう。

ここで話は少し変わる。障碍領域の活動は、今私が書いてきたようなスタンスとだいぶ様相が異なっている。精神障碍の領域の活動が近さを感じるが、他の領域の場合、庇護の発想が前面に出てくる。自立の課題は学齢期以降の課題となってくる。当事者同士のからみによる足場作りよりも、社会へとつながる力の準備が浮かび上がってくる。

「引きこもり」を直接書かず「不登校」としたのは、「引きこもり」は要素が複雑で、「不登校」ほど背景が類型化していないからだ。その核心にある当事者性、当人の生き方としての社会の獲得ということについては共通課題だからなのだ。

この立場と活動のスタイルの異なる活動の接点になりたつ「わーく」の活動は、コーディネートの活動でもあるために、既存の活動のどこにも属せない。加えて、今なすべきことは、当事者と家族・支援者への提案であって、大人社会一般に対しては活動の存在以上のアピールすべき内容にまで熟していないのだ。そして活動の価値が既存の組織の課題の一部を成すが、既存の組織に分散して考えたときに一部でしかないのだ。

「わーく」の活動は、社会に基地をつくる活動ではなく、「社会の中に根付く」活動であることを特徴としている。この「社会の中へ」という部分が、構成する諸領域の活動団体の重篤な困難を抱える当事者への魁(さきがけ)になるだろう。

地方選挙と言う、既存の組織活動の衝突する場面では、それこそ居場所がない。利益代表を送るべくもないからだ。既存政党の硬直化した理想型にぶらさがることを拒否するとき、長雨の止むを待つようなことしか出来ないことがもどかしい。

(校正1回目済)
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