みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

道具に過ぎず…

2014年09月24日 | イザヤ書
イザヤ書 10章


 感心するのは、よくぞ人を魅了するようなものを企業は競って次々と作り出すものだということ。
 あったら便利なのになぁと思っていると、ちゃんと商品化されるのですから恐れ入ります。ですから、自分で使っていて、「これ何とかならないものか」とたびたび思うものがあったら、商品にしたらきっと売れるでしょう。
 多くの道具は使われて初めて役に立つものです。

 10章には、高慢なアッシリヤに神がさばきを下すことが預言されています。
 アッシリヤは、「怒りの杖」「憤りのむち」として神がお用いになったもの。ところが、彼らは神を恐れずに高ぶったために、今度は神によって滅ぼされてしまうのだというのです。

 「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ」というせりふは、アッシリヤだけでなくて、成功者たちが心に思い口にすることばだと思います。「どうだぁ!」との鼻息が聞こえてきそうです。
 しかし主は、このようなアッシリヤを斧に、のこぎりにたとえて、斧が偉いのでものこぎりが大したものなのではなくて、それを作り、用いる人が素晴らしいのだとわかりやすくお語りになります。

 ある宣教師のニュースレターのタイトルは「小さなえんぴつ」。
 マザー・テレサの「私は、神さまの手の中にある小さなえんぴつです」ということばから取られたとのことです。
 どんな小さなえんぴつでも、神さまの手の中にあるならばゆたかに用いられるということなのでしょうね。

 おごらず、高ぶらず、神さまの手の中で…。

光が照った

2014年09月23日 | イザヤ書
イザヤ書 9章


 普段通っていながらも、気づかないままにいるような場所があり、改めて「こんな所だったのか!」という発見があるときがあります。私の場合は道です。「エッ? この道はあそことつながっていたんだ。ホォー…」という具合に…。幸せな瞬間です。聖書を読み進める際にも、こんな喜びがたくさんあります。

 「みことばの光」が書くように、イザヤ書9章は「メシヤ預言」の箇所であり、クリスマスの時期には必ずといってよいほど読まれています。読むたびに希望と喜びが湧いてきます。教会のクリスマス会で子どもたちが演じる聖誕劇のなかの、羊飼いのせりふを思い起こします。
 「暗い夜だねぇ。」
 「さびしい夜だねぇ。」
 「羊たちはだいじょうぶかな?」
 大きな光が照るとやみが追い払われるのは、一瞬のことです。自然の営みによらなくても、真っ暗な部屋で電灯のスイッチをつけると経験することです。
 そしてこれは、イエスを救い主と心に迎えた多くの人が体験したことではないだろうかと考えます。

 社会がどうすることもできないという中でキリストの福音に多くの人々が耳を傾ける、めちゃめちゃな家庭の中で一人がイエスを迎えることで新しくなるなどということもあります。やみを知らなければ光のありがたさがわからないのだと言えます。
 私も振り返ると、その当時は気づきませんでしたが実はどうすることもできないやみの中にいたのだ、その時にキリストいう大きな光を見たのです。全く人生が変わったのだと、キリスト信者としての数十年を眺め返して思います。

 今回の発見の二つ目は、人の心はなんとかたくななか、ということ。8節から21節に三度繰り返される「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」ということばが目に留まります。
 
 「黙想」のことばをヒントにして、しばらく静まりましょう。

夜明けがない

2014年09月21日 | イザヤ書
イザヤ書 8章


 日曜日、東京世田谷の下馬福音教会に伺いました。
 年に一度、聖書同盟を覚え「聖書通読月間」を持っていてくださいます。
 昼食の折りのお交わりの折りに、「みことばの光」を用いて聖書通読を続けることが聖書同盟を支えること、とのことば。大変励まされました。豚丼も大変おいしかったです! ごちそうさまでした。

 マヘル・シャラル・ハシュ・バズとは、「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味だと新共同訳聖書で説明されています。イザヤは妻との間に生れた子どもの一人に、このような意味の名前をつけるよう神から命じられます。前章のシェアル・ヤシュブ(「残りの者は帰る」の意味)やインマヌエル(「神は我らとともにあり」の意味)ならば、受け入れられますが…。
 けれども、イザヤは主が命じられた通りに名づけます。
 それは預言者として彼は、この方に望みをかけ手いるからであり、自らにも「もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない」と課しているからなのです。
 夜明けは、主のことばを聞いて従い、主のことばのとおりに語る者にこそ訪れるのだとも、思わされます。

 神のことばへの本気さを探られる章です。
       

もうだめだ

2014年09月20日 | イザヤ書
イザヤ書 6章

 
 きのうは月一度の特養ホームでの宣教。ホームの周りの田んぼでは稲刈りが盛んでした。Img_2361
こんな干し方、きっとお米がおいしいことでしょう。

 この章は、イザヤが預言者として遣わされるようになった時のことを伝えています。
 「みことばの光」が書くように、ウジヤ王の死は北王国イスラエルと南王国ユダにとっての大きな転機でした。このような時、イザヤが召されるのです。

 神を見、「ああ、私は、もうだめだ」と汚れに恐れるイザヤを主はきよめ、遣わされるために主はイザヤをきよめ、神のことばを語るために主はきよめられるのです。
 「もうだめだ」と新改訳聖書が訳すことばを、新共同訳聖書は「災い」だと訳します。自分の罪の汚れに悲しみ、絶望していることを表すことばです。

 神の聖さの前に、自分がどんなに汚れた者なのかを徹底的に知らされるところから、イザヤの預言者としての道は始まったのだと思います。「だめだ」が希望への一歩。
 改めて思ったのは、罪、汚れをきよめるのは自分ではなくてきよい神さまだということです。
 
 ちょっと風邪を引いたかなという体調です。お互い大事にいたしましょう。
   

「ああ」

2014年09月19日 | イザヤ書
イザヤ書 5章


 昨日のお昼に栗ご飯をいただきました。そうしたら、夕食の準備に妻と娘が栗をむいています。たくさん栗をいただいたので栗ご飯にするのだとのこと。この秋初めての栗ご飯でした。それはもちろん、美味しかったです。
 火曜日においしそうな巨峰をいただきました。たくさんなのでお裾分けをしましたら、一昨日別の所から巨峰が送られてきました。
 こんなことって、よくありますよね。
 
 5章は、繰り返される「ああ」という嘆きのことばが印象に残ります。
 それは、主の深い痛みを伴った嘆きです。ご自分の民が、神を恐れずに自分たちを高ぶらせ、貧しい人々をしいたベルなど、やりたい放題をして正義をゆがめていることに心を痛めているのです。愛しているからこその嘆きです。

 「ああ」と嘆いてそのままにするのではなくて、主は彼らをその罪に従っておさばきになると続けられます。「それはない」「あり得ない」とうそぶいていた人々は、速やかに来る他国の侵攻に慌てふためくのです。
 
 実りの秋、自分の生き様ははどのような実りをもたらすのかを、黙想のことばとともに…。
     

2011-2024 © Hiroshi Yabuki