みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

「私」と「わたし」

2020年09月23日 | エレミヤ書

エレミヤ書 4章19−31節

「私は黙っていられない。」4章19節

「わたしは滅ぼし尽くしはしない。」4章27節

 日本では4連休が終り、今日から普段の生活に戻りますね。先日、近所に住むご家族からお土産のジャムと林檎ジュースをいただきました。林檎ジュースは搾ったものとのこと、甘くさっぱりとした青林檎を思いながら、美味しくいただきました。

 私が普段読んでいる日本語聖書、「聖書新改訳2017」では、「わたし」と『私」が使い分けられています。神がご自分を呼ぶときには「わたし」を用い、人が自分を呼ぶときには「私」と漢字で表記すると教わった覚えがあります。

 4章後半には、「私」と「わたし」がほぼ交互に出てきます。19−21節には、「私」の悶え、痛み、嘆きが描かれています。23−26節では、「私が…見ると」が繰り返されて、世界が荒廃する様子があり、23節の「茫漠(ぼうばく)」ということばからは創世記1章2節とのつながりをおぼえます。

 神が創造された天地、世界を自身が壊されようとしているという光景が「私」に見えるのです。ここでの「私」とはだれのことなのでしょうか。神のさばきのメッセージを託された預言者エレミヤのことです。彼が語るのはこの世界が荒廃していくということばです。そこに彼の嘆きがあります。

 「私は神の側にいるから大丈夫」とか「私は救いを得ているから」ではなく、エレミヤはともに住む人々に待ち受けている厳しいこれからを、このような嘆きや苦悩とともに語るのです。

 「ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない」との主の一言が、そのようなエレミヤにとってどれほどの慰めになったことでしょう。 

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語る者の苦悩

2020年09月22日 | エレミヤ書

エレミヤ書 4章1−18節

ああ、神、主よ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました。」4章10節

 公園を歩いていると大きなドングリの木の下を通ります。たくさんのドングリの実が敷き詰められた草の上を『ザッ、ザッ」と音を立てながら歩くのは不思議な感触です。

 背信の民、裏切る民に、主は厳しいさばきのことばをエレミヤによってお告げになるとともに、何度もご自分のところに帰って来るようにと語ってこられました。1節のことばは、民が帰って来るのを心待ちにしている主の思いが表れています。主イエスが語られた、あのよく知られた『放蕩息子のたとえ」(ルカの福音書15章11−32節)にある、弟息子を待つ父親の思いと重なります。

 8節や10節にあることばは、預言者エレミヤによるものです。彼の思いが表れています。8節で彼は、「主の燃える怒りが、私たちから去らないからだ」と言い、「…あなたがたがから去らないからだ」とは言いません。また10節で彼は、神に向かって「あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました」とさえ言います。まるで文句を言っているようです。

 預言者は神のことばを民に伝える働きをしますが、同時に彼は神に背く民とともに住んでいるのです。頭では同胞は全く間違っていると分かっていながらも、ともに生きる者として時には民の思いを代弁することもあるのだと、教えられます。だからといってエレミヤは、神が語れと命じたことばをねじ曲げて語るわけにはいきません。ここに、語る者の苦悩があります。

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呼びかけに答えず

2020年09月21日 | エレミヤ書

エレミヤ書 3章

背信の子らよ、立ち返れ。」3章22節

 美しい秋空の日曜日、礼拝を終えて帰宅してからいつものように近くを歩きました。妻はクルミの木を見つけるのが速いのですが、木の下に行くとすでにクルミはなく、棒切れがあるのみ。棒切れはクルミの実を落とすために使うためのものです。

 この章には、自分を捨てて他の男のところに行ってしまった妻を待つ夫の思いを重ねつつ、イスラエルの民が立ち返ってご自分のところに来るのを、待ち続ける神の姿が描かれています。いくつかのことばが心に留まります。

 一つは4−5節。「あなたはわたしの若い頃の恋人です。いつまで恨みを抱かれるのですか…」ということばには、神を去った神の民イスラエルの身勝手さが表れています。「若い頃の恋人です」というのは、「今は違いますけど…」というニュアンスがあり、「いつまで恨みを…」ということばには「しつこい!」という嫌悪感さえ伝わってきます。

 次は、11節。イスラエルのほうがユダよりも立派だったというのではありません。ユダはすぐそばでイスラエルの背信、そしてその結果を見ており、そこから学ぶべきことがあったはずなのに、同じ道を行こうとしているという意味で、ユダは正しくないのです。

 そして、22―25節。「立ち返れ」との神の呼びかけへのあるべき応答のことばです。しかし、なぜここにこのことばがあるのでしょう。エレミヤにことばを聞いて、ユダの人々、エルサレムの人々はこのような態度をとったのでしょうか。そうではありません。

 だとしたら、これはエレミヤ自身が民のあるべき応答をことばにしているということでしょう。預言者エレミヤは、彼が語る主のことばに民が耳を傾け、あなたのもとに参ります、罪を悔い改めます、と答えることを期待していましたが、一向にその気配はありません。神の思いを知る者がささげる、大切な祈りの一つ一つのことばです。

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いのちの水の泉を捨てて…

2020年09月19日 | エレミヤ書

エレミヤ書 2章1−19節

いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、こわれた水溜めを。」2章13節

 私たちがクリスチャンとしての歩みを始めた教会が今年で70周年になりました。昨日はお祝いのことばを録画して送りました。予定では今ごろ一時帰国して教会の皆さんと一緒に三日間を過ごすことになっていたのですが…。私たちの年齢とその教会の歩みとが重なっています。

 エレミヤが神から「語れ」と預かったのは厳しいことばでした。神に選ばれたイスラエルの民の罪を、悪を指摘するのです。ですから、聞いた人々からの激しい抵抗が予想されます。ですから神は、1章18節であらかじめエレミヤに、「…あなたを 全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して 要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする」と言っておられます。

 ここで神は、モーセの時代にシナイでご自分の民と契約を結び、約束の地へと導いたと思い起こさせています。しかし、約束の地カナンで彼らは、神に背き、神ならぬものに心を移してしまったと言われます。8節に出てくる祭司、律法を扱う者、牧者たち、預言者たちはいずれも、イスラエルを神に従うよう導くという責任がありました。しかし、そのだれもが自分たちの務めを投げ出す有様です。

 そんな彼らの様子をエレミヤは、いのちの水の泉である神を捨て、水を溜めることのできないこわれた水溜めを掘ったと語ります。具体的には、神に信頼しないで、エジプトやアッシリアという大国を頼りにするということを指しています。

 肝心なものを軽く見て、大切なものを捨ててしまうという愚かさを、私たちは何度も繰り返してきたのではないだろうかと、心を探られる箇所です。

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神は語る

2020年09月18日 | エレミヤ書

エレミヤ書 1章

 「このエレミヤに主のことばがあった。」1章2節

 早朝まで強風が吹いていました。季節の変わり目の風です。夕方公園まで歩きに出ると風がひんやりとしていました。何本もあるクルミの木の下まで来た時、「しまった! 朝に来ればよかった」と思ったのは、風でたくさんの実が落ちたはずだからです。それでも、2,3個は拾うことができました。早速実を食べてたら、若々しい味。

 「みことばの光」は、今日から11月にかけてエレミヤ書を読みます。今年はすでに列王記を読みましたので、列王記に登場する王たちのうちの南王国末期のヨシヤ、エホヤキム、エホヤキン、そしてゼデキヤ王と預言者エレミヤの働きは重なります。

 預言者は、神のことばを預かって時代の人々に語るとともに、そのことばは未来についての預言である場合もあります。その中でも、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルという三つの預言書はかなりの長さです。その中のエレミヤとエゼキエルはほぼ同じ頃に働いています。崩壊しつつある南王国ユダに遣わされて、エレミヤは滅び行くエルサレムの中で語り、エゼキエルは捕囚の地で語りました。

 前置きが長くなりましたが、1章を読み心に留まったことばがあります。それは、「主のことばがあった」です。何度も用いられています。主は預言者自身に語られるのです。ここではエレミヤへの預言者としての召命のことば、預言者としての派遣のことば、そして預言者としてどのようなことを語るが、主によって語られています。

 「自分は神の働きを行うのに十分な準備ができています…」そのような者を、主はことばを語るものとして選ぶのではないのだということに気づきます。エレミヤは、突然の召命に戸惑い、「まだ若くて…」と答えます。しかし神は、「わたしがともにいて救い出す」との約束とともに、彼の口に自ら触れて遣わされます。

 語る者である前に聴いているのか、との問いかけをおぼえる箇所です。

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2011-2020 © Hiroshi Yabuki