みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

不思議さ、美しさ

2020年11月30日 | エレミヤ書

エレミヤ書 52章17−34節

 待降節第一日曜日のメッセージは「明けましておめでとうございます」で始まりました。待降節の始まりはすなわち新しい教会暦の始まりです。ということは、昨日は新年最初の日なのです。アドヴェントやクリスマスは年の終わりに来るので、「ああ、やっと今年も終わろうとしている」と振り返りの時期と重なります。けれども、イエスさまのおいでを待つことから新しい年が始まると意識すべきではないかと思うこの頃です。

 エレミヤ書最終章の最後の部分です。17節から30節は、バビロンが徹底的にエルサレムの神殿から持ち去ったこと、指導者たちを殺したこと、民が捕囚されたことを書いています。エルサレムは二度と復興されないというほどに荒廃してしまった様子が描かれているように思うのです。

 列王記第一7章21節には、高さの違う二本の柱には、ヤキンとボアズという名がつけられたとあります。それにしても、バビロンは何から何まで持ち去ったのです。

 そして31節以降にあるのは、捕囚されたユダの王エホヤキンの「その後」。彼が捕囚されて37年目に、彼は牢獄から出され、王のそばにいて厚遇されたとあります。37年の暗黒の次に待っていたのは信じられないほどの人生の変化でした。人には到底見通しがつかないような中でも、神のなさることの不思議さ、大きさをおぼえるような出来事です。伝道者の書3章11節の「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」ということばを思い浮かべます。

*写真は教会の玄関前にある「家畜小屋」です。まだ主役はいませんでした。


あの時、…

2020年11月28日 | エレミヤ書

エレミヤ書 52章1−16節

 昨日から12月3日までの「みことばの光」で読む聖書箇所について、年初の「みことばの光」通読計画表に記載されているものから変更になっています。あるいは戸惑われた方もおられたかと思います。冊子やPDF版の「みことばの光」は、そのままご使用いただけます。おわびいたします。

 エレミヤ書最終章は、預言者エレミヤのことばではなく、この書の編纂者による記述と考えられます。ここには南王国ユダの最後の王ゼデキヤのこと、そして先にバビロンに捕囚となっていったエホヤキン王のことが書いてあります。きょうの箇所は、列王記第二24章18節から25章12節までとほとんど同じです。また、エレミヤ書ではすでに39章1−10節でこのことが記されています。歴代誌第二36章にもユダの末期のことがありますので、そのことから考えても、旧約聖書の中でエルサレム崩壊とバビロンへの捕囚がどれほど大きなことだったかが分かります。

 ゼデキヤはバビロンの後ろ盾でユダの王となりました。それは当然、バビロンが望むようにユダを治めると期待されてのことでした。しかし、3節後半にあるようにゼデキヤはバビロン王に反逆します。しかしそれは、神への反逆でもあったのです。

 バビロン軍のエルサレム包囲は、1年半にも及びました。当然食糧は不足し、人々はいのちの危機に瀕します。「哀歌」にはこの時のエルサレムの悲惨な状態を神に訴えることばが連ねられています。そのような中、王はひそかにエルサレムから逃亡するのです。しかし民を見捨てた王に待っていたのは悲惨な結末でした。

「あの時こうしていれば…」というのは、失敗時に口にする振り返りです。 もうすぐ11月が終わりますが、今月は「あの時…」ということが多かったと、自分を振り返るつつ思います。神が語られているにもかかわらず、耳を傾けることなく、頼りにならないものを当てにして崩壊してしまう王の姿は、他人事ではありません。


沈められる書物

2020年11月27日 | エレミヤ書

エレミヤ書 51章45−64節

 クリスマスにご家族で観ていただくための「紙芝居」を作っています。絵の得意なお友だちがとても個性的な情景を8枚描き、ある方はストーリーを吹き込んでくださいました。間もなくご覧いただけます。お楽しみに。

 51章の終わりの部分を読みますと、「ことば」が目につきました。48、53節に「主のことば」、57節には「その名を万軍の主という王のことば」、そして60−61節には「これらすべてのことば」、そして64節に「エレミヤのことば」とあります。

 神はバビロンの滅亡についてのことばを預言者エレミヤに授け、エレミヤは書物に記しました。6−64節は興味深いです。書き記した書物を石に結びつけて、ユーフラテス川の中に投げ入れるようにと、エレミヤはバビロンに連れ行かれたセラヤに命じるのです。

 セラヤはバビロンに入ったときに、これを読み、人々に書かれていることを伝えるのです。それは、バビロンの荒廃を伝えることばでした。栄華をきわめるバビロンを眺めながら、セラヤはここを主が荒廃させると告げるのです。それは聞いたユダヤの人々にとってどのように響いたのだろうかと、興味は尽きません。彼らは希望を抱いたのだろうか、それとも「そんなことが起こるはずがない」と一笑に付したか、どちらでしょうか。

 想像ですが、セラやはおそらく皆が見ている前で書物を、川に沈めたのではないでしょうか。その情景は、信じ難いことばを信じるようにとの、主からの励ましのように思えます。

 頼りになるのは神のことばのみと、先の見えない今こそ思うのです。

*写真は「カーボロネロ」という野菜、Nさんが提供してくださいました。


あなたによって…

2020年11月26日 | エレミヤ書

エレミヤ書 51章20−44節

 水曜日は前日よりもさらに寒さが厳しいと感じましたが、歩いていると次第に体が暖まってきます。久しぶりにこのような経験をしました。

 51章の中段は美しい歌によってバビロンの最期が語られています。それゆえに、余計に滅び行くバビロンの悲哀が伝わってくるように思います。

 20節から23節では、「あなたによって」ということばが繰り返されます。ここで「わたし」とは神、「あなた」はバビロンのことです。気づくのは、このことばの主語は「わたし」だということです。「あなたによって」の繰り返しはバビロンが「わたしの鉄槌(てっつい)」、「戦いの道具」にすぎないことを強調しています。

 それなのにバビロンは、自分の力でやったと高ぶり、繁栄をわがものにしました。しかし、それは長くは続きません。高ぶり、高慢の次に来るのは例外なく破滅です。人にも、企業にも、そして国家にも、このことは当てはまります。

 「あなたによって」ということばを、主語は「主」なのだということをどのようなときにも忘れないように…との促しをここからいただきました。

 教会が作成した「エルサレムガイド」の第二作目がアップロードされました。興味がおありの方は、最後にリンク先を記しますので、ご覧ください。

https://youtu.be/E5DRzx3qGTw


主は私たちの義を明らかにされた

2020年11月25日 | エレミヤ書

エレミヤ書 51章1−19節

 ショッピングモールの中にある薬局への途中、クリスマスの飾りが輝いている何軒かかの家がありました。そしてモールの広場には、いくつものクリスマスグッズやお菓子を売る売店(?)が…。今年はクリスマス市(いち)が行われませんのので、このようなものを見るととホッとします。

 51章もバビロンへのさばきのことばが続きます。1節の「滅ぼす者」、2節の「他国人」とは11節にある「メディア人」のこと、つまりペルシアです。アッシリアをバビロンが倒し、そして無敵と言われてきたバビロンをペルシアが滅ぼすというのです。バビロンの終焉(しゅうえん)は、捕囚されていたイスラエル人の解放の時。

 10節の「主は私たちの義を明らかにされた」ということばに目が留まります。神に背いたためにバビロンによってユダとエルサレムは滅ぼされました。それは一貫してエレミヤが語ってきたメッセージです。それなのに、「主は私たちの義を明らかにされた」とここにあります。ですから、これはエレミヤのことばとは矛盾するのでずっと後になって付け加えられたものだと解く人もいます。

 しかし、ユダもイスラエルも彼らの正しい在り方、正しい行いによって義とされたのではありません。主が神に背き、罪を犯した彼らを義であるとされたのは、罪をいい加減にしておられるということではありません。彼らは罪ゆえに滅ぼされ捕囚されました。そのような苦難を通ることをで、罪を神の前に悔い改め「私たちはシオンで、私たちの神、主のみわざを語ろう」と信仰の叫びをあげる者へとされたのです。

 そして10節は、私の叫びともなるべきことばです。


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