みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

投げ捨ててはならない

2014年10月31日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 10章32-39節


 「みことばの光」を発行している聖書同盟が発足60年を迎えるというので、きのう記念誌編集の打ち合わせがありました。これから歴史部分の執筆、原稿の依頼などをして、何とか2015年度中には出したいとのことです。
 
 「みことばの光」の読者であることも含めて、私が聖書同盟とかかわって43年ほどになります。バプテスマを受けた教会では、当時「みことばの光」を用いるよう勧めていましたので、私も「みことばの光」をとるようになりました。けれども、恥ずかしいことに初めのうちは「積ん読」。
 そのような私が「みことばの光」発行に携わらせていただくとは、まったく不思議なことだと、改めて打ち合わせからの帰り道で思ったことでした。

 節目に何かをまとめるというのは、最初の理念を確認するという意義があると思います。「初心忘るべからず」とはよく言われますが、初めに抱いた確信を捨ててはならないということがあります。

 「ヘブル人への手紙」の読者たちも、イエス・キリストを信じるという一点から目を背けさせる大きな力と戦っていました。ですから作者は、「…光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい」また、「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません」と勧めるのです。

 きょうは宗教改革記念日。1517年10月31日、ルターがヴィッテンベルグ城教会(しろきょうかい)の扉に「95ヶ条の論題」を張り出した日です。ちょうど10章38節には「私の義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない」とあります。

 「あなたがたの確信を投げ捨ててはならない」とのことばを、心に留めます。
    

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…ではありませんか

2014年10月30日 | ヘブル人への手紙
ヘブル人への手紙10章19-31節


 ノートコンピュータの記憶媒体をSSD(ソリッド・ステート・ドライブ)に載せ換える作業は、無事終了。何が変わったかといいますと、起動が速くなったということ。つまり、コンピュータのスイッチを入れてから作業できるまでの待ち時間が短縮されたということとです。
 大げさでなくびっくりするほどの速さです。

 きょうの箇所は「こういうわけで」ということばから始まります。
 これまで教理を展開してきた作者は、その教えに基づいてどのように歩むか、生きるのかを勧めています。「こういうわけで」というつなぎのことばは、イエス・キリストはまことの大祭司、完全な罪の贖いを成し遂げ、模型ではない天の聖所にお入りになったお方なのだから、このイエスを信じるあなたがたは~しなさい、~しようではないかと勧めるのです。

 ここには4つの「…ではありませんか」という勧めがあります。次のようにまとめてみました。
 ・心に血の注ぎかけを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、
  ⇒真心から神に近づこうではありませんか。
 ・約束された方は真実な方ですから、
  ⇒しっかりと希望を告白しようではありませんか。
  ⇒互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
  ⇒かの日が近づいているのを見て、ますますそうしよう(いっしょに集まろう)ではありませんか。

 改めて気づくのは、これらの勧めの根拠が私たちにあるのではなくて、すべてイエス・キリストにあるということです。私たちが真実だから、あの人が真実だから、教会という組織が真実だからではなくて、約束された神が真実なお方だから、これらの勧めに耳を傾け、行う義務、意義があるのです。

 きょうの「みことばの光」の「一つ所に集まらなくても、交わることのできる時代である、しかし、同じ時間と空間でしか持ちえない御霊の励ましを大切にしよう」との勧めを受け止めたいと思います。
    
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ただ一度だけ

2014年10月29日 | ヘブル人への手紙
ヘブル人への手紙 10章1-18節


 コンピュータに内蔵されている記憶媒体のハードディスクが「そろそろかな?」という兆候を見せ始めているので、延命のために思い切ってSSD(ソリッド ステート ドライブ)に取り替えることにしました。現物、工具キットを入手して、きょうあたり「決行」する気でいますが、さて結果は如何に…? 
 どんなものでも、一度購入したら永遠にだいじょうぶなどというものはありませんね。コンピュータとは大違いですが、随分長持ちしていた洗濯かごの取っ手のあたりにヒビが入ってしまいました。買い換え…でしょうか。

 きょうの箇所には、「年ごとに」「繰り返し」ということばと「ただ一度」「一つの」ということばが対比されています。年に一度大祭司が、毎日祭司が民の罪のとりなしのためにささげるいけにえが完全に罪を除くことができないことと、キリストがただ一度ご自分を一つのささげ物としてささげられたことで信じる者が聖なるものとされていることとが、鮮やかに比べられます。

 人間の罪が神の前にそんなにも簡単に「処理」されるはずはないという教えが、この手紙の読者たちの教会を揺さぶっていました。作者はそのような誤りに陥り、逆戻りすることがないようにと、キリストこそ、律法が影として見せてくれていたまことの大祭司だということを、執拗なまでに書き続けてきました。

 たった一度で? そんなことで! というような信じがたいようなことを、キリストは罪人のためになしてくださったのです。
     
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天そのものに…

2014年10月28日 | ヘブル人への手紙
ヘブル人への手紙 9章11-28節


 きのう、長い間おつき合いさせてもらっているご夫妻が来訪。とても良い時間を過ごすことができました。神さまは、お二人によってたくさんの贈り物を私たちに運んでくださいました。必要なことをお二人によって届けてくださったと思います。ありがたい!
 お昼は、街中の住宅をそのまま用いているカフェで昼食。掘りごたつに足を入れてゆったりとランチを楽しみました。

 「みことばの光」きょうの箇所のタイトルは、「『初めの契約』の限界 パート2」。
 この手紙の作者は、旧約聖書に掲示されている幕屋(会見の天幕ともいいます)における礼拝には限界があるが、キリストがまことの大祭司として成し遂げられた贖いは完全だと述べているのです。

 心に留めたのは、「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです」という24節のことば。
 幕屋の奥まった場所にある至聖所には、大祭司が年に一度だけ自分のために、また民のために動物のいけにえの血を携えて入ることができましたが、キリストはただ一度、ご自分の血を携えて、幕屋の至聖所にではなく、天そのものにお入りになったというのです。

 模型から連想するのは鉄道模型。数年前アメリカオレゴン州の知人を訪ねた折、お隣のガレージいっぱいに展開されていた鉄道模型を見て、「ぼくの夢を実現している人がいる」とうらやましく思ったことを思い出します。聞けば、その方は模型の人形一つ一つ、木や、建物、そしてもちろん列車に至るまで全部手作りとのこと。どれほど器用なのだろうかと驚きました。P1010884
 しかし、模型は所詮模型。本物にはかないません。

 「キリストを信じるだけでだいじょうぶ?」と心揺れる読者たちに、この手紙の作者が「任せなさい!」と胸を張っているような雰囲気が伝わってきます。
 
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礼拝する者の良心

2014年10月27日 | ヘブル人への手紙
ヘブル人への手紙 9章1-10節


 土曜日の午後は教会の幼児クラブがあり、近くの古墳公園にピクニックでした。

 今頃は暑くもなく寒くもなく、芝生広場でごろんとするのにちょうどいいですね。2歳と1歳のお友だちは、丸墓山という円墳に「登頂」。特に1歳のお友だちは人生初登頂です! ちなみに、この円墳はかつて石田三成が忍城を水攻めにするために堤をめぐらした際に、陣を構えたところとして知られています。

 芝生広場から丸墓山を見上げると、ずいぶん高く見えます。「何メートルあるかな?」「50メートル」…などと言っていましたが、調べてみると高さはたった18.9メートル。直径は100メートルだそうです。自然にできたものではなく、人力で積み上げたものですので、たかが18.9メートル、されど18.9メートルということでしょうか。光成は堤をめぐらして「完璧だ」と感慨を抱いたのでしょうか。忍城は落ちませんでした。

 幕屋は、罪ある人間が神を礼拝するための場として設けられたもの。神がここでお会いになると約束されました。この手紙の作者は、レビ系の祭司職の限界に続いて、幕屋での礼拝の限界に話を進めます。
 
 心に留めたのは、「それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません」ということば。礼拝は「良心」の問題だということばを読んだことがあります。良心が鈍くなったり罪のためにさいなまされていたら、真の礼拝は不可能だという意味なのだと思います。

 幕屋でささげられるいけにえは、礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それは、人々は幕屋で礼拝するたびにいけにえをささげ、大祭司も年に一度至聖所に入る際には、自分のためにまた民のために血を携えて入らなければならなかったということからもわかります。

 幕屋の不完全さを述べたということは、きょうの箇所ではまだ触れられませんが、完全に良心をきよめる道がキリストによって設けられたという事柄に読む者の目を向かわせます。
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