みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

兄弟として諭す

2021年04月15日 | テサロニケ第二

テサロニケ人への手紙第二 3章

 ちょうど今、風呂、洗面所、トイレなどを更新している最中なので、何となく落ち着きません。でも、もう少しの我慢です。

 3章は手紙のまとめの部分。ここからはパウロとテサロニケ教会の間に、キリストにある堅い絆で結ばれていることを確認できます。それは、パウロが彼らに自分のために祈ってほしいと願っていること、彼らのために手紙の終りで祈っていることによってです。

 祈りに挟まれるようにして、テサロニケの教会の内部にある課題に目を留めて、助言を与えています。怠惰な人々の存在です。怠惰な人々は、主の日に対する間違った期待を持っていました。主がもう一度おいでになるのだから、仕事なんてしている場合ではない…といったようにです。

 パウロは、このような人とは距離を置くようにと勧めます。怠惰は人から人へと影響を与えてしまうからかもしれません。それ以上に、キリストにある者の基本が仕事や生活に勤勉であるということに基づくのでしょう。

 そのような中で目に留まったのは、15節の「しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい」とのことばです。6節の「避けなさい」とのことばを合わせて考えてみると、巻き込まれてはならないけれども、主にある兄弟として諭すべきということです。誤った道に陥った人を愛するとはどのようなことなのかについて、これらのことばから心が探られます。


誰のことばに

2021年04月14日 | テサロニケ第二

テサロニケ人への手紙第二 2章

 2章を読むと、この時テサロニケの信徒たちが揺さぶられていたことが分かります。テーマは「主の日」について。主の日が来る、つまりキリストが再びこの世界に来ることについては、キリストご自身も神の使いもすでに明らかにしたことです。

 けれども、その日がいつ来るのかについて具体的な言及はありません。そうなると、「主の日」が訪れることについていろいろな思いが出てきます。もうすぐ来るという人もいましたし、まだ先のことだと言う人もいました。

 テサロニケの信徒たちは、主の日に対する大きな期待のゆえに、間違ったことを語る人々のことばに惑わされていました。

 ここから思うのは、ことばを信じるあるいは疑うということです。ことばには人を動かす力があります。身近な例ですと、電車で次の停車駅の案内があれば、乗っている人はそのことばに信頼して疑うことはありません。でも、その案内が間違っていたら…と考えたらゾッとします。

 人は誰かのことば、あるいは自分自身で紡ぎ出したことばによって、良くも悪くも動くのです。厄介なのは、私たちを悪の世界に引きずり込む力を持つことばこそ巧みだということです。

 誰のことばを信じるのかについて、クリスチャンは明確な答えを持っています。キリストの教えに…です。しかし注意すべきは、キリストの名を用いて偽りを語る存在です。最も信頼するのは誰のことばなのでしょうか。


祈るときに

2021年04月13日 | テサロニケ第二

テサロニケ人への手紙第二 1章

 六日間のホテルでの隔離を終えて、帰宅しました。これだけの期間、狭い部屋から一歩も外に出ることができず、三食お弁当でどうなるのかと思っていたのですが、良い時間を過ごすことができました。これだけのことをしないと、外からの感染は避けられないのだと考えました。

 「みことばの光」はきょうからテサロニケ人への手紙第二を読みます。この手紙は、迫害と苦しみの中にあるテサロニケ(ギリシア)の教会にパウロが書き送ったものです。「テサロニケ教会その後」というサブタイトルがつくかもしれません。迫害などの苦しみの中で、テサロニケのキリスト者たちは信仰が大いに成長し、互いに対する愛が増し加わっていると、パウロは手紙の初めに書いています。

 2章以降を読み進めて行きますと、この教会には大きな課題が横たわっていることに気づくのですが、パウロは1章ではそのようなことには直接触れません。むしろ、彼らのことを覚えて神に感謝しています。

 ここを読んで心に留めたのは、11節からパウロは彼らのために祈るのですが、その前に彼は、テサロニケ教会のことを詳しく書いているのです。つまり、パウロは彼らをよく知っているのです。はたして私は、どなたかのことを覚えて祈るとき、どれだけその人のことを知っている、いや、その人のことを主に教えていただいているのだろうか、という問いかけを受けるのです。


普段の生活を

2016年03月14日 | テサロニケ第二

テサロニケ人への手紙第二 3章

 「主の日が来る」ことをめぐって混乱するテサロニケの教会に、「終わりに」としてパウロは何を語りたいのでしょうか。私たちのために祈ってほしいと祈りを要請し、締まりのない生活をしている人々には静かに仕事をして自分で得たパンを食べよと戒め、兄弟たちにはたゆむことなく善を行えと勧めています。

 とりなしと仕事、そして善を行うのは、キリスト者の普段の生活そのものだと思いました。おいでになろうとしている主を待つのだから、しっかり構えて普段とは違う特別なことをするようにというのではなくて、自分の目の前に主が置いていてくださるみこころを行うようにと勧めているのです。

 私たちの日常の生活で身についていることが大切なのだということに気づきます。先日、前任の障がい者支援施設で監査があったとの話を聞きました。監査は無事に終了し、いくつかの改善点を指摘はされたけれども、「これからも、このように続けるように」とのことだったようです。「それっ! 監査だ」とばかり、付け焼き刃的にしたことは、監査を乗り切るためのものでしかありません。

 毎日の積み重ねは力になるのです。それが主をお迎えする備えなのだということに改めて気づきます。

*公園で見かけたリスです。ズームしたので画像が荒れているのですが…。


そのとき

2016年03月12日 | テサロニケ第二

テサロニケ人への手紙第二 1章

 1月はとてもゆっくりと日が経つように思いましたが、2月3月になると逆に早く一日一日が過ぎ去るように感じます。きのうは東日本大震災から5年経った日。もう5年…と思う人もいるし、まだ5年…と感じる人もいることでしょう。

 迫害と患難の中にあって、「そのとき」を待ち望みながら過ごす「いま」は、長く感じるのか、あるいは短いと思うのか、どちらなのでしょうか。テサロニケのキリスト者たちは、そのような中で「相互の愛が増し加わっている」と信仰が成長し、迫害や困難に耐えていたのです。だからこそ、主が再びおいでになる日が来るのを強く待ち、待ち焦がれて、すでに来たかのように言う者や、聞いて落ち着きを失うような者たちもあったのでしょう。

 このような誤りを正そうというのが、この手紙が書かれた目的です。「みことばの光」3月号28−29ページに「テサロニケ人への手紙第二を読む前に」があります。その中に、パウロたちがこの教会に続けて二通の手紙を送った理由について、「一回伝えて万事うまく行くなどとは考えない。…生涯にわたる信仰生活で重要なのは、一度の決定的な体験よりも、地道な日々のみことばの学びである」とのことばがありました。

 いまが厳しければ、劇的な救出体験を待ち望むという気持ちは確かにあります。そのような中で、日々コツコツとみことばに教えられることこそ、浮き足立たずに居続ける鍵なのだと思います。


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