みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

その日、その時

2018年12月06日 | ヨエル書

ヨエル書 3章

 2018年が終わろうとしていますが、今2020年の「みことばの光」の各月の頁割りに取りかかっています。通読計画を確認していたら、ミスを発見。「見過ごせないミス」なので、あちらこちらを動かしてようやく2020年1−3月の頁割りが仕上がりました。作業中、2020年3月に自分は何をしているのだろうか、何が起こっているのだろうかと想像するのですが、確実なのは今よりも歳をとっていること。それから…。

 聖書を読むと、「時」に気づきを与えられます。ヨエル書は、はるか昔の預言のことばですが、その中には今なお実現していないことがらも語られています。「その日、その時」、「主の日が判決の谷に近づく」というのがいつのことなのかについては諸説ありますが、はっきりしているのは、書かれていることは必ず実現するということです。

 「その日、その時」が近いか遠いかを見極めようとする試みも数限りなくなされてきたことです。大切なのは、「世の終わる時の徴(しるし)は、どのようなもの」かと弟子たちに尋ねられた時にお教えになったイエスのことばを心に留めること。その時がいつなのかは知らされていないのだから、用心するようにとイエスは教えられ、そのあとで、ともしびを持って花婿を迎える十人の娘たちのたとえ、主人から財産を預かったしもべたちについてのたとえをお話になったことを覚えました。→マタイの福音書24、25章。

 主がシオンに住むその日が必ず来るのを期待して待つ、そのためのきょうという一日でありますように…。

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楽しみ、喜べ

2018年12月05日 | ヨエル書

ヨエル書 2章15−32節

 前の日には「青空が逃げてしまって…」と書きましたが、昨日は青空と、その向こう側の太陽が顔をのぞかせてくれました。この時期の太陽は何よりの神からの贈り物。

 2章、いや、ヨエル書は、2章15-17節に書かれている神からの命令に民が答えることによって大きく方向が変わります。罪を悲しみ悔い改めることができるのも含めて、神の祝福がどれほど豊かなものかを2章後半から味わうことができます。

 なぜなのでしょう。神がご自分の地をねたむほど愛されるから、ご自分の民を深くあわれるからと18節にあります。いなごに徹底的に食い荒らされ裸になった地を神は顧み、穀物と新しいぶどう酒、そして油を産み出すようにしてくださるのです。それは、いつの間にかそのようになったとか、人ががんばったからということではなくて、全く以て神の働きによるのです。ですから、地も、獣たちも、そしてシオンの子たちも神、主にあって楽しみ喜ぶのです。

 神が私たちに賜わったこの世界、地球の環境は人間の強欲ゆえに悪化の危機にさらされています。そのための会議が今開かれています。そこで国を代表する人々が知恵を集めて討議するのは大いに意義のあること。けれども、何よりも大切なのは、私たちのこの世界を賜わった神の前に立つことであり、罪を悔い改めることではないのか、との思いを強くします。

 28-29節のことばはペンテコステに成就したとして知られています。神のお働きは、物質的な回復にとどまることがありません。一部の特別な人々に与えられていた神の御霊がすべての人に注がれるのです。愛とあわれみ豊かな神のお働きを数えて楽しみ喜ぶ一日を…。

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しかし、今でも

2018年12月04日 | ヨエル書

ヨエル書 2章1−14節

 月曜日。朝には久しぶりの青空で、きょうは太陽を見ることができるかと思ったら、雨。青い空はまるで当地の上を避けるかのように地平線の向こう側に逃げていってしまいました。

 2章の初めのことばは、1章で預言されたいなごの襲来の有様を描いているようです。いなごの大群が襲う様は青空を覆う黒雲のよう。この自然の災害とやがてイスラエルを襲うアッシリヤの大軍、ユダを襲うバビロンの大軍との姿がが重なります。しかも主は、それをご自分によるものだとおっしゃるのです。

 イスラエルの民は、主は自分たちを守り導くお方だと考えていましたから、ヨエルによって語られるこの預言には混乱したことでしょう。けれども、起こる理由があるのだということを彼らはヨエルの預言から知らされます。

 12節の「しかし、今でも」ということばが心に残りました。こんなふうになっても、こんなことになっても、なお望みがある、立ち直る道が設けられているというメッセージです。一人ひとりにとって「今」はどんな時なのでしょうか。もしかしたら、もう後戻りができないところまで来て手遅れなのではないかと、不安に駆られているかもしれません。

 どうせだめだ、やがて終わりが来るのだからというような刹那(せつな)的な考えに囚われることなく、この地にあって生きよ、何よりも、「心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰」るようにとの、主のことばが心に響いてきます。感謝!

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主に向かって叫び求めよ

2018年12月03日 | ヨエル書

ヨエル書 1章

 アドヴェント第一主日。お借りしている教会のクリスマス祝会に招かれたので、礼拝の後で合流させていただきました。皆さんが持ち寄った美味しいお菓子がたくさん。若かった時にはあれもこれもと食べたことでしょうが、限界あり。それでも、何を食べたかを数えてみたら、いつもよりも多かったです。

 ヨエル書と言えばいなご、と私の中では結びついていますが、改めて1章を読んでいなごのすさまじさに驚かされます。

「噛みいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、バッタが食い、バッタが残した物は、その若虫が食った。」

 ヨエルから「恥を見よ、…泣き叫べ」と声をかけられている農夫たちは、やり切れない思いで、せっかく育てた物が裸にされていくのを眺めていたことでしょう。彼らはどこに、何に、誰に、助けを求めればよいのでしょう。ヨエルは言います、「断食を布告し、きよめの集会を招集せよ」と。それは、断食をすれば…きよめの集会をすれば…というのではなくて、「主に向かって叫び求め」るためにでした。

 キリストを信じる者は、「何事かがあったら神に祈ること」という対処の仕方法を知っています。「窮(きゅう)すれば通ず」ということばがありますが、「お手上げ」の中でこそ、「主に向かって叫び求めよ」ということばの力強さを覚えます。

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その日、その時

2013年12月18日 | ヨエル書
ヨエル書3章


 当地はどんよりとした曇り空の朝。雨が予報されています。

 3章には、神がユダとエルサレムを回復するとともに、周辺諸国へのさばきのメッセージが届けられます。

 「その日、その時」ということばに目を留めてみようと思います。
 ある人にとって神を信じることは、その人が長いこと克服できなかった問題を乗り越えるという証しをもつことかもしれません。けれども、神を信じたからといって同じような「効果」が得られない人もいます。いや、かえって神に信頼しているにも関わらず重い病にかかったり、問題を抱えたりするということもあるのです。

 すぐに「その日、その時」を迎えられる人もいれば、ずっとずっと待たなければならない人もいます。けれども、間違いなく「その日、その時」が来ると信じて歩むのが、私たちを育てるのだと思います。ある人は「その日、その時」が遅すぎるとじりじりするかもしれませんが、信頼し続けるときに、多くの恵みを味わうことができます。

 今朝のニュースでは、現政権が「国家安全保障戦略」を決定したと報じていました。何やらきな臭い時代にはいろうとしている不安を禁じえません。
 けれども、神が事を動かされる「その日、その時」を信じることができなければ、やったらやり返せと互いの間の垣根を高く強くしなければならないものなのだと改めて思います。

 本日の「みことばの光」の終わりにある、「感謝しよう」ということばにあるように、矛盾に満ちた時代をあきらめずに、みことばに向かい、声を上げ、祈り、「その日、その時」を待ちたいと思います。
     

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2011-2018© Hiroshi Yabuki