みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

老人は夢を見、青年は幻を見る

2023年09月28日 | ヨエル書

ヨエル書 2章18−32節

 水曜日は、ヨハネの黙示録2−3章にある、七つの教会のうちペルガモン、ティアテラを訪ねました。宿泊したエーゲ海沿いの町にあるホテルは古い建物を改築したものです。一泊ではもったいないと誰もが思いました。朝6時の目覚ましではなくて、モスクからの祈りを勧める「アザーン」の大きな音で目が覚めました。するとそのあとに鶏が一斉に鳴き出します。不思議な目覚めでした。

 ヨエル書2章後半からは、これまでとはトーンが変わり、神による回復の預言が届けられます。「主の日」について、それは神がすべての人を正しくさばく時です。これについてある人が「主の日はすべての人が主が神であるということが分かる日、それが何よりも嬉しいことで、待ち望んでいる」と話していました。そう思います。

 25節の「わたしはあなたがたに償う」ということばが目に留まります。ここでのこのことばは、これまでにいなごの大軍勢によって失われてしまったものが完全に回復されるという意味で用いられています。「主の日」は、ご自分に民にとってはそのような日なのです。

 28節から32節(新共同訳聖書などでは3章1−5節)のことを使徒ペテロは引用しました。聖霊がイエスを信じる人々の上に臨まれたという出来事は、ここでの預言の実現だとペテロは語ったのです。16節での、「…老人たちを呼び集め、幼子と乳飲み子たちを集め…」ということばと28節は呼応しているように読みました。

*ペルガモンアクロポリスの劇場


あわれんでください

2023年09月27日 | ヨエル書

ヨエル書 2章

 火曜日は長い旅路でした。イズミールを出てアレキサンドリア・トロアスへ。聖書で「トロアス」として登場する地です。そこでは、パウロ、ルカ、そしてユテコの名前が重なります。そしてローマ時代のトロアスの港の跡を訪ねました。倒れた円柱や建物を構成する石が並の中にある景色は、10年前とほとんど変わりありませんでした。最後はアソスに。第三次伝道旅行の帰路、トロアスから陸路で向かったパウロと、船で向かったルカたちがここで会い、パウロはそこから船でミレトスに向かって行ったと使徒の働きに書いてある場所です。

 ヨエル書2章にタイトルをつけるなら、私は「神のあわれみ」とします。

 1節に「地に住むすべての者は、恐れおののけ。主の日が来るからだ。その日は近い」とあります。ここで恐れおののけと呼びかけられているのは、イスラエルの人々だけではありません。「地に住むすべての者」です。私とは関係がないとは多くの人々の考えだと思います。しかし、主の日が来るのは一部の人々のためではなくて、あらゆる人々と関係のあることなのです。

  そしてここには、「あわれみ」「あわれむ」ということばも見られます。主「の日の」さばきの前に胸を張って「私はだいじょうぶです」「私には関係がありません」と言える人はいません。主のあわれみにすがるほか術はないのです。

 だとしたら、私たちができるのはただ一つ、「主よ、あわれんでください」「主を、こんな私をあわれんでください」と祈ること。あれもしました、これもできましたなどということではないのだと、ここから気づきます。

*写真はアソスの夕景 


わたしの国

2023年09月26日 | ヨエル書

ヨエル書 1章

 月曜日に、トルコのイズミールに飛びました。火曜日から6人で、パウロの伝道の旅とかかわりのあるトルアスやアソス、そしてヨハネの黙示録2−3章に書かれている、アジアの七つの教会跡をたどる、スタディ・ツアーです。

 「みことばの光」は今日からヨエル書を読みます。「ヨエル書を読む前に」には、ヨエルの名前が「主こそ神である」という意味を持つとあります。「主こそ神であり、人は神ではない」という事実を、ヨエルの時代に生きた人々も、そして現代の私たちも受け入れなければならないのだと、身の回りに起こるさまざまな出来事を見る時に、思います。

 1章の初めにはいなごの被害の様子が描かれます。4節のいなごの被害の描き方と3節の「あなたがたの子どもたちに伝え……子どもたちはその子どもたちに……その子どもたちは後の世代に……」という語り方には何か似たものを感じます。伝えるべきメッセージが重要であって、何が何でも世代を超えて伝えなければならないことと、いなごの被害が深刻であって、食い尽くされてしまうということとが対応しているようなのです。

 さらに、いなごの被害は、外敵の侵入を象徴してもいます。6節に「ある国民がわたしの国に攻め上って来た」とあります。「わたしの国」ということばが心に留まります。ここでの「わたし」とは主なる神のこと。イスラエルを神は「わたしの国」と読んでおられるのです。その事実を忘れるのが人間。自分たちの国、自分たちのもの、ではなくて、すべては主のものなのです。

 そして、15節には「主の日は近い」とあります。それは「全能者による破壊の日」だと解かれます。「主の日は近い」はヨエル書のテーマ。その日に備えて人は何を考え、何を為すべきかを、この書から考えていきたいと思います。


その日、その時

2018年12月06日 | ヨエル書

ヨエル書 3章

 2018年が終わろうとしていますが、今2020年の「みことばの光」の各月の頁割りに取りかかっています。通読計画を確認していたら、ミスを発見。「見過ごせないミス」なので、あちらこちらを動かしてようやく2020年1−3月の頁割りが仕上がりました。作業中、2020年3月に自分は何をしているのだろうか、何が起こっているのだろうかと想像するのですが、確実なのは今よりも歳をとっていること。それから…。

 聖書を読むと、「時」に気づきを与えられます。ヨエル書は、はるか昔の預言のことばですが、その中には今なお実現していないことがらも語られています。「その日、その時」、「主の日が判決の谷に近づく」というのがいつのことなのかについては諸説ありますが、はっきりしているのは、書かれていることは必ず実現するということです。

 「その日、その時」が近いか遠いかを見極めようとする試みも数限りなくなされてきたことです。大切なのは、「世の終わる時の徴(しるし)は、どのようなもの」かと弟子たちに尋ねられた時にお教えになったイエスのことばを心に留めること。その時がいつなのかは知らされていないのだから、用心するようにとイエスは教えられ、そのあとで、ともしびを持って花婿を迎える十人の娘たちのたとえ、主人から財産を預かったしもべたちについてのたとえをお話になったことを覚えました。→マタイの福音書24、25章。

 主がシオンに住むその日が必ず来るのを期待して待つ、そのためのきょうという一日でありますように…。


楽しみ、喜べ

2018年12月05日 | ヨエル書

ヨエル書 2章15−32節

 前の日には「青空が逃げてしまって…」と書きましたが、昨日は青空と、その向こう側の太陽が顔をのぞかせてくれました。この時期の太陽は何よりの神からの贈り物。

 2章、いや、ヨエル書は、2章15-17節に書かれている神からの命令に民が答えることによって大きく方向が変わります。罪を悲しみ悔い改めることができるのも含めて、神の祝福がどれほど豊かなものかを2章後半から味わうことができます。

 なぜなのでしょう。神がご自分の地をねたむほど愛されるから、ご自分の民を深くあわれるからと18節にあります。いなごに徹底的に食い荒らされ裸になった地を神は顧み、穀物と新しいぶどう酒、そして油を産み出すようにしてくださるのです。それは、いつの間にかそのようになったとか、人ががんばったからということではなくて、全く以て神の働きによるのです。ですから、地も、獣たちも、そしてシオンの子たちも神、主にあって楽しみ喜ぶのです。

 神が私たちに賜わったこの世界、地球の環境は人間の強欲ゆえに悪化の危機にさらされています。そのための会議が今開かれています。そこで国を代表する人々が知恵を集めて討議するのは大いに意義のあること。けれども、何よりも大切なのは、私たちのこの世界を賜わった神の前に立つことであり、罪を悔い改めることではないのか、との思いを強くします。

 28-29節のことばはペンテコステに成就したとして知られています。神のお働きは、物質的な回復にとどまることがありません。一部の特別な人々に与えられていた神の御霊がすべての人に注がれるのです。愛とあわれみ豊かな神のお働きを数えて楽しみ喜ぶ一日を…。


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